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第10話

 扇風機の風がエアコンの冷気を運んでくる。  外から聞こえる蝉の声に、体感温度がさらに上がっていくようだった。    …何も浮かばねえ。  目の前の白紙のノートを閉じると、修司は畳の上にあおむけに寝転んだ。  ぼんやりと、ただ天井の木目を眺める。定期的に入るライティングの仕事はこなしていて生活には困らないものの、もう二年以上、小説と呼べるような文章が書けていない。    ――もう、限界なのか。  修司は、何度目かの諦めにも似た気分で目を閉じた。    小説を書くことが生きがいだと思っていた。これまで、吐き出さずにはいられない嵐のような感情に突き動かされて文字を書いた。時には胸の奥底に沈んだ未練や、後悔や、欲望をすくいあげるために。    けれど今は何もない。波も風もたたない平穏な毎日の中、心はどこまでも静かで空っぽだ。    ふいに蓮の顔が脳裏をよぎった。『ジムノペディ』を、あの子はもう読んだだろうか。誰にも読まれたくない、けれど誰かに読んで欲しい。矛盾した思いに引き裂かれながら綴った、過去の苦い思い出を。  あの日以来、書きたいものなんて自分の中には何ひとつ残っていないのかもしれない。  蓮に貸してしまったことを、修司は内心後悔していた。  ……あれほど心の内を曝け出した話、読ませるんじゃなかった。  いたたまれなくなって身体を起こす。渡してしまったものは仕方ないし、これ以上考えてもどうしようもないことは分かっている。  ふと時計を見ると既に正午を回っていた。昼飯でも買いに行くかと立ち上がった瞬間、玄関のドアがこつこつとノックされ、明るい声が響いた。 「修司さーん。起きてますかー?」  蓮の事を考えていたら本人がやってくるというタイミングの良さに、修司は苦笑する。  ドアを開けると蝉の声と肌にまとわりつく熱気の中、頬をかすかに赤くした蓮が佇んでいた。照りつける日差しに、色素の薄い髪と瞳が透けるように輝くのが綺麗だと修司は思う。 流行りなのか、ロゴの入ったオーバーサイズのTシャツと足首丈の黒のパンツに、ハイカットのコンバースといった格好だ。  華奢な体型も相まって、一見すると女に間違われてもおかしくない。 「いま大丈夫ですか?」 「大丈夫だよ。暑いから入んな」  促すと蓮は安心したように、ぱっと笑顔になった。 「夏に飲む麦茶って美味しいですよね」  注いでやった麦茶をぷはっと一気に飲み干して、蓮がしみじみ呟く。ずい分素朴な感想だと修司は頬をゆるめた。  見惚れるくらい綺麗な外見とは裏腹に、中身は全然すれていない。蓮はいつも子供のように屈託なくて、素直だ。 「懐かしいんだよな。子供の頃飲んだ味と変わんねえとことか」 「あ、そうかも。懐かしい味」  蓮がふふ、と笑って目を細めた。夏になると冷蔵庫で冷やされていた麦茶の味を思い出す。あれから随分と時が経ったと修司は思う。 「修司さんの実家ってどこなんですか」 「このへんだよ。少し離れてるけどな。実家って言っても親死んでるし、もう誰も住んでねえけど」 「……そう、ですか」  自分の麦茶に口をつけると香ばしい匂いが鼻をつく。  修司の両親は既に他界していて、弟とは彼が結婚して以来あまり連絡を取っていない。家出同然に実家を出てしまったことを後悔はしていなかった。けれど、空き家になった実家を思い出すたびに、もう帰る家は失われたという現実がちくりと心に傷をつける。  一瞬遠い目になった修司に、気遣うように視線が向けられたのがわかった。  蓮の前で感傷に浸ってしまった自分が気恥ずかしい。 「あ! 本、読みました。『ジムノペディ』」空気を変えるように、蓮が明るい声を出す。 「そうか。でも感想言わなくていいや。すげえ恥ずかしいから」 「えー! 言いたくて来たのに」  すぐムキになる蓮が面白くて、ついからかいたくなってしまう。本当に可愛いなと思いかけ、何を考えてるんだ俺はと打ち消した。 「うそだよ。聞かして。蓮の感想聞きたい」  改まって真面目な顔で視線を合わせると、蓮は一瞬動きを止めた後、みるみるうちに頬を赤く染めた。 「……なんていうか。抑えきれない思いが溢れてる感じがして、すごく……ドキドキしました」  口に出すのをためらうように視線を落とす蓮に、心臓が不穏な音を立てる。 「もしかしたら実話なのかもって思いました。……違ってたらすいません」  やっぱりな、と修司は思った。この子ならおそらく気付くだろうと。 「そうだよ」と何てことない話のように、修司は肯定する。他人に打ち明けるのは嶋以来だ。 「二十五の時だったな。全部が全部じゃねえけど、その時の思い出をもとにした話」 「修司さんは、そういう……男も好きになれる人なんですか?」  直球の質問だ。  静かに蓮を見たけれど、おずおずと向けられた瞳には好奇心ではなく、何故か縋るような切実さが見えた。 「そうだな。そうなんだろうな、多分」  そうだ。あの時は確かにそうだった。ピアノの上手な美しい手をした男だった。  差し出すものが無いくらい自分の全てを捧げて、こんなに人を好きになることは二度とないと思えるような恋だった。  それなのに。何の前触れもなくある日突然終わった。『修司のものにはなれない』と呟いた男の冷えた瞳が蘇り、ずきりと胸が痛む。  忘れかけていた傷が悲鳴を上げた気がして、修司は一瞬目を閉じた。 「どっちなんだか自分でもわからない。あれ以来、男でも女でもそういう気持ちになったことないからな。……正直、恋愛なんて二度としたくねえし」 「……」 「色々燃え尽きたんだろうな。小説だってもう、書ける気がしない」  押し黙ってしまった蓮に、話が重すぎたかと苦笑する。 「はは、枯れてるだろ。蓮は俺みたいになるなよ」 「……なりません」  蓮の思いがけず強い口調に、修司は一瞬言葉に詰まった。 「枯れてるなんて言わないでください。俺、修司さんの小説好きです。……初めてなんです。こんな風に誰かに想われてみたいって思ったの。だから」  薄茶色の瞳がゆらゆらと水分を湛えて、修司を捕らえた。  小説の話だと頭ではわかっているのに、あまりに切なげなその瞳に、速まっていく鼓動に自分でもたじろぐ。 「だからまた……書いてほしいんです…」  消え入りそうに蓮が呟くから、幼い子供にするようにその頭を撫でた。  きっと蓮にも口に出すのも苦しい思いの一つや二つ、当然あるんだろう。  自分が昔、そうだったように 「……ありがとな」  蓮は「はい」とだけ答えると胸の内を隠すように、かすかに微笑んだ。

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