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第164話

「…さて、帰るかな」 トレイに手をかけ、席を立とうと腰を上げると、僕の後ろを通ろうとした他の客に体をぶつけてしまった。 「あっ…すみませ…んっ…」 ぶつかった拍子に僕の体は大きく揺れてバランスを崩した。 「あっ!」 「おっと…大丈夫ですか?」 床に転ぶと思って身構えたのだが…力強い腕に抱えられていた。 「す…すみません…」 大の大人が恥ずかしい。 腰に回された腕からそっと逃れ、お礼を言おうと彼の顔を正面から見た。 「えっ…?!何で…」 やや歳を重ねた感は否めないが、記憶の中に居た“彼”が僕の目の前に立っていた。 「見違える程大人になったね」 カウンター席で“彼”は緩く口角を上げビールを喉に流し込む。 「幾つだと思ってるんです?」 ふふっと楽しそうに笑って僕の左手をつっと撫でた。 「結婚指輪…してないんだね」 触れられた指先が熱い。 「離婚…されたんです」 「えっ?」 信じられないって顔に書いてある。 「随分前ですよ。子供が生まれて…すぐ」 金色の液体から立ち昇る泡が液面から弾ける。 「君はあっち側の人だから帰してあげたのに…。そうだったんだ」 「あっち側って…どういう事ですか?」 ぐっとグラスを空け、“彼”はバーテンダーにお代わりを注文した。 「君はゲイじゃないだろ?女性を愛せるならその方が世間体がいい」 「世間体…」 そんな理由で僕は“彼”に捨てられたのか。 嫌われた訳では無いという安堵と納得出来ない気持ちが僕の心の中で大きくなった。

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