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第2話
俺は、着ていた服を上下とも脱いで、ヒミズさんの上に乗っかる形で裸で寝そべった。
「うっ……」
硬い筋肉が硬直して、でも、すぐに弛緩する。
苦しそうに呼吸を繰り返すたび、俺の体も小刻みに上下する。
俺の重みが伝わるはずだ。
鼓動だって届いているはず。
…ね?
あなたの体は、人が触れても壊れない。
あなたの体は、あなたが思っている以上に強い。
だから、大丈夫。
こうしていても、あなたは汚れなんかで死んだりしない。
肺には新鮮な空気が淀みもせずに送り込まれるし、心臓だって、どくん、どくん、と、ほら、力強く動き続けている。
あなたと俺は、同じ人間。
ね?大丈夫。
「…ホラ、平気でしょ?」
覗き込むようにしてヒミズさんを覗き込む。
俺がここにいることを確認させてあげる。
あったかいでしょ?
すると…
不思議なことが起きた。
ヒミズさんが、俺に向かって微笑んだのだ。…嬉しそうに。
一瞬、呼吸を忘れてしまった。
時間が何らかの作用で瞬時に凝固してしまったかのように、まわりの空気が、しん、と振動を止めて静まりかえった。
ヒミズさんが俺に向かってそんな笑顔を見せるなんて…
…太陽みたいな店長のそれとは違う、凍てついた氷河が優しくゆるんで…、その裂け目から、清水がさらさらと湧き出してくるのを見るかのような、…あたたかくて、優しい微笑み。
(…焼き付けたい…!)
とっさに思う。
鉛筆も紙も、カメラも何もないから。
目に、まぶたに、脳に、俺の、俺だけの記憶の中に、この微笑みを閉じ込めてしまいたい…!
俺なんかに、そんな表情を見せるなんて、…
(…熱のせいで、誰かと間違えているのかな…?)
それでもいい。
例え仮初 めの笑顔だったとしても、俺を受け入れてくれたようで、…今、俺は、…うれしい。すごく。
…だから、俺も、今は自然な笑顔を返すことができる。
「あったかいですか?ヒミズさん…」
人の体を温めるのに最適なのは、別の人間の体温だって、何かで聞いた気がする。
ヒミズさんのうえでモゾモゾ動いて、掛け布団を俺ごとかぶせる。
…本当だ。
あったかい。
ヒミズさんの体、あったかくて、気持ちいい……
さっきまで薄寒かった心の底が、ヒミズさんの笑顔を見ただけで、暖かなスープにひたされたようにほどけ、満たされていく。
(…単純だな、俺は。)
実に、単純だ。
でもいいだろ、うれしいんだから。
少し動くと服が冷たくなっているところがある。
(…服、邪魔だな…)
やっぱり…
「…びしょ濡れの服、脱がしちゃいますね…」
布団のなかでごそごそ動きまわりながらヒミズさんの服を脱がす。
なるべく刺激しないように、今度は下から、ボタンを、ひとつずつ、そっと外していく。
ヒミズさんは、もう抵抗しなかった。
俺が脱がしやすいように、眠たがりの小さな子どもみたいにぎこちなく体を動かして、下のズボンまで脱がさせてくれた。
暗い、穏やかな照明のなかに浮かび上がる姿態。
なめらかな白い肌が、目の前にある。
…きれいな肌。
透き通っているかのようだ。
(これが、ヒミズさんの、からだ…)
形の良い筋肉を覆う、薄くすべすべとしたその皮膚は、熱に浮かされたまま苦しそうに呼吸を繰り返す、無防備で美しい生命体の、唯一の庇護膜。
こんなきれいな生き物が、この世に存在し、動いているなんて…
―― まるで、人間じゃないみたいだ―
人間の形をしているけれど、今の彼は、言葉を交わすことさえはばかられる…そう、まるで、神がこの世に遣わした、尊いほどに美しい、神獣のようだ。
その肌が寒そうに一瞬だけ震えたので、俺はまた体を重ねてあげる。
直に触れ合った肌の奥から、彼の鼓動を感じとる。
――生きてる。
確かに。…俺の、この腕のなかで。
と、大きな手が背中に回ってきて、ゆっくりと抱き締められた。
頭が、首元に静かにうもれていく。
獣は、気持ち良さそうに息を吐いた。胸の上下に合わせて、俺の体もゆっくり動く。
髪をすくように、頭を何度も撫でられる。
(…これは、愛情表現…だよな…?)
気高く大きな、でも、どこか危うく、か弱い神獣が、俺に…俺なんかに、心を許してくれた。
その喜びに、今はじっとひたっていたい。
…ああ。下着も邪魔だ。
すべてを感じ取りたい。
この美しい獣が、俺のなかで生きているという、そのすべてを。
そうだ。下着も剥ぎ取ってしまおう。
抱きしめられた腕がはずれないように、…怖がらせて逃げられたりしないように、慎重に下着をずらしていく。
「……う」
獣が動く。
―― 大丈夫、こわくないよ、大丈夫。
舌を出してあたたかい首筋を舐めあげた。何度も。
獣はおとなしくなった。
少し体を浮かして下着を下ろしきり、ちょっと乱暴だけどあとは足の先でそうっと引き抜いた。
自分の下着も取り払う。
体を重ねなおす。
太腿で、獣の中心を探る。
―― 俺は、お前の仲間だ。
わからせてあげるために、俺の中心も獣の体に押し付ける。
獣はまだじっとしている。
―― いい子
首を伸ばして、…獣のきれいな唇に、俺の唇を重ねた。
腰と太腿を動かしながら、舌を絡める。
「……ん…」
獣は愛おしそうに俺の頭を撫で続けた。
―― 俺の、勝ちだ……
そうだ…
―― お前は、俺のものだ…。
大きな優越感を感じると同時に、背筋にぞくぞくと、官能とは違う何かが這いあがってくる。
あれ…布団、かけてるはずなのにな。
「は……」
限界だ。
獣のうえに寝そべり、背中に手をまわし、締め付けるように抱きしめてみせる。
―― こうするんだよ。
早く。
俺はどうやら寒いんだ。
だから
もっとちゃんとあっためろよ……ヒミズ――
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
ああ。
体がだるい。
熱くて寒い。
苦しい。
誰かが何かわめいている。
その声でなんとなく覚醒する。
額を誰かの手のひらが包み込んだ。
目を開ける。
アンドーさんと、店長と、ヒミズさんが血相を変えて俺を見下ろしていた。
……あー…
……あー寝坊したんだな俺…しまった…
「…あ、すみません…。…寝坊…しちゃって…すぐ、お店…行きます…」
起きようとしたらアンドーさんに頭ごと押さえつけられた。うぐ?
…なんで…?
「あんたたちはもう!首輪でもしてないとすぐ無理する!!冷水ちゃん!アンタの風邪がうつったのよ。」
……あ、なんか、怒られた…
ええ…ヒドイ…俺、起きるって言ったのに…
………――
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
なんだか、いい匂いがする。
目を開けるとヒミズさんが俺の顔を覗き込んでいた。
ヒミズさんは俺と目が合うと、さっ、と体を起こした。
「目が覚めましたか。」
「……ん…、ハイ…」
「気分はいかがですか。」
「……」
…きぶん…
「…おなか…すきました…」
最後に食べたご飯って、確か、昨夜の雑炊を何口か…
「…いいにおいがします…」
昨日はくたくたになるまで動き回って、ヒミズさんのまかないも無くて…
…あ、ヒミズさん、確か風邪ひいて倒れたんだよね…
それから…おれ、見舞いに来て……それから、どうしたっけ…
あれ…?なんか…全部、夢…?
「…ベッド、起こしますよ。」
……?
突然モーター音とともにベッドが動き始めた。
上半身が少しずつ持ち上げられていく。
うわー…リクライニングベッドだったのか俺のベッド……
そんなわけない…!
(え…っ)
横向きの体を必死に前に向けると掛け布団がはだけおちた。
(うわ…っ)
は…裸じゃないか…俺…!
「…ひょえ……」
掛け布団をおたおたとかきあげる。
と、目の前に淡いピンク色をした毛布がふわりと広がった。
ヒミズさんが差し出してくれている。
毛布じゃない。服のようだ。腕を通す穴がふたつ開いている。
ヒミズさんは俺の横に来てもう一度広げてくれた。
「あ…ありがとうございます…」
ヒミズさんに近いほうの左腕をとおすと、ヒミズさんはそっとそのピンクの毛布を俺の背中にまわしてくれたので、そこに右腕もとおしてもぞもぞと前を合わせる。
薄い茶色をした木製の丸いボタンがついている。指先でボタンを留めていく。袖が長い。あったかい。
――ばふ…
頭の上にも毛布をかぶせられた。
フード付きらしい。
ボタンを留めているうちに、毛布みたいにやたらふかふかモコモコとしたこの服は、腰より少し長めのワンピースみたいになっていることがわかった。
女の子向けのバスローブみたい。
ごろごろという音がして、目の前に突然白くて細長いテーブルが現れたので、驚いてヒミズさんを見上げる…つもりが、フードに邪魔されてうまく見ることが出来なかった。
ベッドにかぶさるようにして置かれたテーブルは、可動式らしい。病院でよく見る入院患者用のテーブルみたいだ。こんなのあったんだ。昨日は気づかなかった。
ボタンを留め終わって、テーブルを動かさないようにバスローブの裾を腰の下まで引っ張ると、
――ことん
目の前に透明なコップが置かれた。縦長のまっすぐなグラスに水が入っている。
その横に、水差しも置かれる。丸みを帯び、コップと同じく透明で、蓋のついていないシンプルなデザインのもの。透明なガラスの中に入った水が、陽の光を反射してテーブルの上に砂時計みたいな形の光をゆらゆらと描く。
わあ…きれいだ…
「寒くないですか。」
「ん、あ…ハイ」
またヒミズさんを見上げようとしたが、やっぱりフードに邪魔されて上半身しか見えなかった。
白いシャツに、ダークレッドのエプロン。
さっと翻って、細い腰が映る。
ヒミズさんはドアに向かってすたすたと歩いて行った。
そうか。見ちゃいけないんだ。ヒミズさんは人から(特に俺から)見られるのを嫌うから。
…でも…
――『寒くないですか。』
(…今、すごく優しい声だった。)
どんな顔をしてたのかな…
ヒミズさんが出て行ってしまったので、テーブルの上のコップを手に取る。
口をつけると、冷たくて透明な液体が、喉をつたってするすると体の中へ入っていく。
そこで初めて、自分の体が思いのほかカラカラだったことに気づいた。
ただの水なのに、甘さすらをも感じられて、息もつかずに一気に飲み干す。
「……ぷはあ…」
生き返った…
いや…死んでないけど、なんか、五臓六腑が、生き返った……
……そして…
(……おなか、すいた…)
部屋が暖かいのでフードの中から辺りを見回すと、部屋の隅に白い円筒型の石油ストーブがあった。懐かしい形、そして、独特の、この香り。
裸で起き上がった時でも寒く感じなかったのは、室内がストーブで温められていたからだ。上に乗せられたホーローの白いケトルからのぼる湯気で、空気も優しく潤っている。
ストーブの真ん中の透明なガラス(?)の穴からは、チラチラとオレンジ色の炎が見えていて、いいな、ああいうの。
部屋は明るい。今は昼頃かな。
ヒミズさんの部屋は壁紙が四方とも濃紺だ。ヒミズさんの好きな色。
でも天井が白いから、なんだかすごくお洒落な感じ。暗くないし、すごく落ち着く。
ライトグレーのカーテンの横から、溢れんばかりの日差しが差し込んでいる。外は晴れている。カーテンの向こうから少しだけ青空が見える。
(…ヒミズさんはもう大丈夫なのかな。)
目が覚めた時に一瞬見えた顔は、ほのかに赤かった。
まだ熱があるんじゃないのかな?
俺がベッドを占領してて、寝られないんじゃ…
(…で、)
俺はなんでヒミズさんのベッドで寝ているんだ…
(しかも…裸で…)
ベッドを見下ろそうとしてうつむくと、フードの上から何かがぺろん、と落ちた。
…なにこれ…
(耳…?)
手を上げて軽く引っ張ってみる。さらに探ると、同じものが左右に二つ、付いている。どうやらウサギの耳のようだ。
――がちゃ
ドアが開いた。
ヒミズさんがワゴンを入れているところだった。
見ちゃいけないので、慌てて手を下ろしてうつむいた。
ワゴンがころころと近づいて来る音がやがて止んで、ヒミズさんはベッドのすぐ脇に立った。
…やっぱりいいにおい。さっきより強くなった。
(…うっ)
お腹が鳴りそうになり両手を使って急いで抑えこむ。
横からヒミズさんの腕が伸びてきて、テーブルの上にあったコップと水差しが下げられた。
ヒミズさんの、白くて細くて、でも力強い指先が、俺のすぐ目の前を動くのでどきどきする。
手にはいつもの、半透明で薄手のゴム手袋。でも、その上からでも手の甲に浮き出た太い血管が見えて、「きれいもの」好きな俺はつい目で追ってしまう。
次に、目の前に、ふわり、と、淡いベージュ色をした布が広げられた。
テーブルクロスのようだ。はみ出た布は俺の目の前の掛け布団の上にまで広がった。
そこへヒミズさんの手が何度か伸びて、おもむろに、銀製の針金みたいな鍋敷きと、厚手の白いお椀をいくつか、そして、木製のスプーンを配置する。おだやかで繊細で、きめ細やかな動き。
クロスと同じ色のナプキンを、鍋敷きの上に静かに置く。
(うわあ…)
ヒミズさんのご飯が来るんだ…
そして、ここで食べていいんだ…!
(ものすごく贅沢な時間が始まる…!)
俺の胸は密かにときめいた。
次にヒミズさんは、鍋敷きの上にいったん置いたナプキンを手に取り、広げて、俺の目の前に持ってくる。
あ、そうか。ヒミズさんは完璧主義者だから、ご飯もマナーよくきちんと配膳したいのだ。
ナプキンに手を伸ばそうとして、
「ん」
フードがますます深くかぶさったのでそのまま固まってしまう。
ヒミズさんは俺の首の下を慎重に引いて、そこに、丁寧にナプキンを取り付けてくれた。
軽くまくり上げられたシャツの袖からのぞくヒミズさんの引き締まった腕が、フードの隙間からかろうじて見える。その向こうできれいな体がちらちら動く。
うわー…ヒミズさん、腕だけで、なんというか…こう…
(そそられる…)
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