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第3話

 って、ばか…!  まだ少し熱っぽいせいか、変なことを考えてしまった。  ヒミズさんが視界から消える。  フード付きのローブを用意したのは、俺がついついヒミズさんを見てしまうから、やっぱりそれを回避するためのものなんだろう。  狭い視界に、また新しいものが映る。  ヒミズさんが後ろにあったワゴンから取り出したものらしい。お鍋のようだ。差し出されたそれは、鍋敷きの上に置かれた。  ヒミズさんの手には、今度は白いミトンの鍋つかみ。容器がかなり熱いらしい。  次に、ミトンを取り去ったヒミズさんの指先が、白い陶器の小さな深皿を鍋の脇に配置する。深皿には青々と刻まれた小葱が盛られていて、ティスプーンのような薬味匙が入っていた。 ……で…、 ……なんだろう、これ? ………パイ?  キャセロールの小さめの赤いホーロー鍋に、ほどよい焦げ目がついたパイ生地が被さっている。  店の人気メニューを思い出した。  ブイヨンで柔らかく煮込んだ牛肉と、ポルチーニ茸などのキノコ類、それに野菜を混ぜて器に盛り、生クリームソースをあわせ、その上にパイシートをかぶせてオーブンで焼き上げたヒミズさんの得意料理。さくさくのパイをスプーンで割ると、閉じ込められていたポルチーニ茸の香りが花が開いたようにブワっと広がる。中の具材を、肉汁が染み込んだパイとともに口に運べば、その瞬間だけで「天国に行ける」(店長評)。 …でも、ちょっと、今の体には重いかもしれない…。  どうしよう。牛肉の塊が出てきたら… ―― こういうときって、ナニ食べさすの?ぼくもヒミズも、お互いあんまり体調壊したことなくて。  昨日の店長の声が聞こえてくる。 ―― やっぱり栄養のつくものかな~。特上ステーキとか。 (………。) …そうなんですか?ヒミズさん… (俺はもう少しあっさりした、できれば胃腸に優しいものをいただきたいんですけど…)  果たして銀のスプーンが現れた。  ヒミズさんが、慎重に、真ん中からパイを壊す。 ―― ほわん… …ああ。いいにおい…  でもなんだろう、お肉やキノコの匂いじゃない。  もっとスパイシーな…でも、優しい香り。  パイの欠片が鍋の中へ落ちていく。  やっぱり生クリームソースなのかな。白いスープが見える。  まだふつふつと煮立っていて、熱そうだ。  ヒミズさんはパイを半分ほど割ると、スプーンを下げた。  次に、細長い2本のミルを、一度俺に表示を見せるようにしてから並べて置いた。  鍋の右側に岩塩入りのミル。左側に、ブラックペッパー。  いったん置いたブラックペッパーのミルを手に取ると、鍋の中にゴリゴリと少しだけ砕き入れた。  次に、右側に置いたミルを手にし、岩塩も砕きながら少しだけ入れる。  両サイドに再びミルを戻すと、ヒミズさんはすぐに小さめのお玉を持ってきた。  静かに何度かかき混ぜている。  あ、ご飯がみえる。  ん?何かのお肉の先だけが見えた。…鶏?  そのあと上汁だけを丁寧にすくうと、目の前にある厚手で白い陶器のお椀にそっと注いで、薬味匙で小葱を散らし、いよいよ俺の前に差し出した。 (……?)  ヒミズさんの真意がわからないまま差し出されたお椀を両手で受け取る。  お椀の中には少しとろみのついた白いスープだけがある。 「…い…ただきます…」  おそるおそる、お椀から直に口に運ぶ。 「あちっ…」  唇をつけたところで思わず悲鳴をあげてしまった。  熱いに決まってる。あんなに煮立ってたんだから!  陶器が厚手なせいで、手に持っていてもすぐには熱が伝わって来なかったのでその熱さがわからなかった。  ヒミズさんは、ばっと俺の手からお椀を取ってしまった。  俺の愚鈍さにまた呆れてしまっただろうか。  唇に残った上汁をなめとりながら自分のドジ症な(さが)を呪う。  それから気づく。スープのうまみに。 (あ、なにこれ、おいしいかも…) 「…ふう、ふうう」 ………。 (えっ)  俺のすぐ横で、ヒミズさんが器に“ふうふう”してくれてる!?  あの冷淡な人間サイボーグ(店長評)のヒミズさんが!? …いったいどんな顔で…  おそるおそる見上げようとして、器が戻ってきたので慌てて前を向き直り、器を手にする。  浮つきそうになった自分の考えを振り払うかのように、器の中のスープに集中する。  慎重に口をつけた。  ヒミズさんの“ふうふう”のおかげか、もうそんなに熱くない。 ―― こく… ……… ……お… …おいしいっ…………!  なんじゃこりゃ!ショウガじゃ!  スパイシーな香りの正体は、ショウガだった!  そして後から追いかけてくるように深い出汁の味わいが広がり、ショウガの香りと一緒に一気に鼻まで突き抜けた。 「…んん…」  あまりのおいしさにため息が漏れる。  なんだろうこのスープ。さっき鍋に一瞬見えた骨付きの鶏肉のせいなのかな。薄味なのに、とろみのついたスープにはうまみ成分が染みわたっていて、すごく奥深い味がする。  あ、ニンニクも少し入ってるのかな?とにかくあとをひくうまさだ!  少しとろみのある極上の白いスープを、俺は一気に飲み干した。 「…は…あ…」  五臓六腑に染みわたる。  もっと欲しい! (…んー…)  でも、できれば今の気分は、もう少し、お塩多めで…  そう思ってほぼ無意識に右側に置かれた岩塩のミルを見たとたん、ヒミズさんはさっと動いてそれを手に取った。  鍋の上でまた少しがりがりと砕き、お玉で静かにかき混ぜる。  そして別のお椀にまた上汁だけを注ぐと、俺が持っていたお椀を取って、今度はそっちを差し出してきた。  そうか。  味見だ。  俺の口に合うように、味を調整しようとしてくれているんだ!  このひと、すごい!  フードの動きを察知して、俺が胡椒を求めていたらそっちを取ってくれたんだろう。  今度は自分で“ふうふう”をしてから口に運ぶ。  2杯目のスープはさっきより少しだけ塩味がきいて、そして、やっぱり極上だった。 「…おいしい…」  俺が息を吐き出すようにそう漏らすと、ヒミズさんは右手に長めのフォーク、左手にトングを持って、半分に割られたパイの中にそれらをそうっと沈めた。  ヒミズさんのトングが、さっきちらりと見えた骨付きの鶏肉をスープの上に持ち上げてくる。  手羽元だ。大きさからして、鶏じゃなくておそらく鴨肉?  白っぽく色がぬけたような鴨肉は、皮が軽くあぶられているのだとわかった。ヒミズさんは、トングとフォークで手際よくさばき始めた。  ヒミズさんが軽くフォークを入れただけで肉がほろほろとスープの中に崩れていく。  丁寧に取り除かれた骨と皮は、いつの間にか鍋の横に置かれた大きめのお皿の上に次々と並べられていく。  骨をおおかた取り除いてしまったのか、ヒミズさんは次に、トングを食用ハサミに、フォークを木製の菜箸(さいばし)に持ち替えて、ハサミで肉を切りほぐしはじめた。  ときおり手を止めて、残っていた小骨や鳥皮を箸で丹念に取り除いては、スープを一滴も垂らすことなく隣の皿に移していく。  ひとつの無駄もない、きびきびとした優雅な動き。  集中して作業を行うヒミズさんは、まるで、自分だけが知っている完成形を導き出すために作品に最後の仕上げをほどこしている何かのカリスマ職人のようだ。  俺は、その様子をフードの隙間からただじっと眺めている。 …心地いい空間。  ヒミズさんが、俺のためだけに動いている。  俺だけのために作った料理を、俺だけを見ながら味付けして、俺のために、食べやすいように丁寧にほぐしてくれている。 (…俺のためだけに…)  今は…この空間のなかでは… (…俺だけの… ヒミズさん…)  完成形にたどりついたのか、ほどなくしてヒミズさんは持っていたハサミと箸を隣の皿に置き、残ったパイを少しだけ割ってから、スープにお玉を沈め、また新しくしてくれたお椀に今度こそご飯と鳥肉を注いでくれた。  俺の前に、柔らかく煮えたご飯が入ったお椀と、木製のスプーンが静かに置きなおされる。  薬味匙で小葱を少し散らし、ヒミズさんの両手はフードから消えた。 ―― 召し上がれ  ヒミズさんの声が聞こえた気がした。  手を伸ばし、右手にお椀を、左手にスプーンを持って、すくう。 ―― ふう、ふうう…  さっきのヒミズさんを思い出しながら息を吹きかけ、口に運ぶ。  とろりとした、でも淡泊でしつこくない鴨のスープ。お肉の油を、きっと調理前に丁寧に除いてくれていたんだろう。  スープのベースはおそらく生クリームじゃなくて牛乳だ。牛乳とショウガ、それにご飯がこんなに合うとは知らなかった。  ほぐれたご飯の中に歯にあたるものがある。噛み砕いてみると、香ばしいナッツの風味が鼻に抜ける。なんだろう、ピーナッツ?カシューナッツ?この甘みは後者かな。歯触りが心地いいので何度も噛みしめてみると、そのたびに砕かれたナッツの甘みが舌先をくすぐる。  ヒミズさんの手により完璧にほぐれされた鴨肉は、口の中でほろほろとほどける。煮込まれて柔らかくなった軟骨もうまい。  割れたばかりのパイはさくさくとしていて、そこからわずかにバターの風味がこぼれでて、その都度、スープのうま味に新たな味わいをそっと与えて楽しませてくれる。  ほどよく効いたショウガは、飲み込んだその先で、お腹の中からほかほかと俺を温めてくれる。 (…ああ…なんて優しいんだ……)  ヒミズさんが用意してくれた具材の、そのひとつひとつが、俺の体に優しく、優しく溶けて、しみこんでいく。  お椀が小さいので一杯目はあっという間になくなった。  二杯目が欲しくてお玉を目で探ろうとすると、フードの向こうでヒミズさんが動いてくれる。  と、今度は薬味匙が入った小さい深皿が2つ増えた。  ひとつにはゴマが入っている。もうひとつには、粉々にされたチーズが入っていた。  なるほど。お椀が小さいということは、おかわりごとに薬味を変えていろいろな味を試せるということだ。  そこにもうひとつ、醤油さしが置かれる。…醤油。日本人のソウルフードならぬ、ソウルソース。  また少しパイを割り、お玉で2杯目をすくおうと鍋を優しくかきまわしているヒミズさん。  ああ。ここはぜひ目を見てお礼を言いたい。  この料理に俺がどれだけ感激しているか、(じか)に伝えたい。 ―― ありがとうございます、ヒミズさん。とても、とてもおいしいです。  そこで俺はかぶっていたフードを思いきって取り去った。「ありが…」 (えっ?) …言いかけた言葉を思わず引っ込めてしまうほど、俺は…驚いた。自分の目を疑った。  滑らかで透きとおるように白いヒミズさんの顔が……真っ赤だ。耳まで。  少し潤んだ目を、驚いたように丸くして俺を見ている。 「…ヒミズさん、やっぱり熱がまだ…」  お玉を握っていた手が素早くお玉から離れて俺のフードをたたくようにして戻す。あう。 「……熱が、あるんじゃ、ないですか…」 「下がりました。黙って食べてなさい。」  いつもの、冷たい声。  ヒミズさんはお玉から手を離したままベッドから離れた。  俺が見てしまったから、すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。  なんだよう…心配してるのに。  せっかく優しいヒミズさんになってくれたのかと思ったら、ちがってた。 (…いいですよ。自分でよそえますから。)病人ですけど。  俺もなんだか少し不機嫌になって、体を伸ばしてヒミズさんが残したお玉で2杯目をよそう。  余熱で鍋の底が焦げ付きそうになっている。早く食べ終えないと。 (…熱じゃないとしたらその顔の赤みはなんなんですか。)  お礼を言おうとしたところだったのに。  俺に見られるのがそんなにヤなんですか?それとも、実は怒ってたんですか?いつから?どうして? …ちがいますよね。こんなにおいしい料理を用意してくれて、しかもあんなに丁寧に配膳してくれて…  お玉でよそった2杯目に、粉チーズを入れてみる。 (お礼を言われることを予想して、それがいやだったんですか?恥ずかしいから。)  小葱も入れて、少し混ぜてから口に運ぶ。 (うわ~…)  これも美味しい!!スープが少し濃厚になってしまったけれど、そのぶん味に深みが増して、ショウガが後味をすごくうまくまとめあげてくれる! (やっぱり、お礼言いたい!)  2杯目をもぐもぐしながら、指先で、ばれないようにそっとフードを上げてみた。  ヒミズさんはワゴンの前で後ろ向きになって立っていた。肘がわずかに動いている。まだ何か作業を続けている。 ―― すとん  ワゴンの上で、ナイフで何かを切っているようだ。  少し奥にあるボールに手が伸びたとき、赤いものから何かをくり抜いているのが見えた。 …リンゴの芯だ。  食後のフルーツを用意してくれているんだ。  それがわかったとたん、俺の心にさっきまでのあたたかい気持ちがよみがえってきた。  少しだけ見える耳は、やっぱりほのかに赤く見える。 (…熱じゃないとしたら…)  3杯目をよそいながら、俺はさらに考える。 …このひと、本当はただ純粋に、人が苦手…いや、というよりは、“怖い”のではないだろうか。  人と向き合うのが怖いんだ。…昔の俺と同じ。  自分から人に近づこうとしないのは、弱みを悟られたくないから。  俺もそうだった。虐待されていた事実を知られたくなくて、人と接するときは、気持ちのどこかに常に薄い防御壁を用意していた。  自分から人に近づこうとしなかったし、近づいてくる人を無意識に拒みつづけた。  きっと何か、過去にとてもつらい出来事があって、そのことを知られたくなくて、自分を頑丈な殻の中に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。  だから、人を、俺やアンドーさんや、店長までもを、こんなにまで拒絶しようとする。  本当は、優しくて思いやりがあって、とても魅力的で素敵な人なのに…  ゴマを入れると、3杯目はぐっと和風な感じになった。ぷちぷちとしたゴマの食感とこりこりしたナッツが俺の口の中でますます香ばしく踊りながらも、ゴマの風味がお椀全体を落ち着かせ、引き立てた。  試しに醤油を垂らしてみると、これが牛乳の入ったスープにとても合う。意外だけど、…おいしい。 ―― しょりしょり、しょりしょり…  何かをすりおろすような音が聞こえ始めた。  リンゴをすりおろしてくれているんだ。 (ほら…) …最高じゃん、このひと。 「…あっつい」  俺はわざと声に出して言うと、フードをとりさり、ボタンをいくつかはずした。(実際、ストーブとローブとショウガのおかげで、俺の体は火照るほど熱くなっていた。) 「…ねえ、ヒミズさん」 ======------→

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