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第4話
俺が声をかけると、ヒミズさんは肩越しに“おそるおそる”俺を見た(少し前の俺なら、「にらんだ」と表現した)。
「俺が一番好きなアレンジはチーズ入りです。
でも、この料理を用意してくれたヒミズさんのことが、俺はいちばん好きだと思いました。」
ヒミズさんの顔色が、またさっと赤みを増した。
ほら。照れてる。
怒っているんじゃない。あれ、“照れ”の表現なんだ。
(ヒミズさん…なんだかかわいく見えてきたぞ。)
「ありがとうございます。ヒミズさんのこと、俺、好きですよ。」
「…なっ…」
「残りの雑炊とそのリンゴ、分け合って食べましょうよ。まだ熱があるんなら、…ここで一緒に寝ませんか。」
さすがにやり過ぎたようだ。
案の定ヒミズさんは、すりかけのリンゴをボールごと持ってきて、俺のテーブルの前にどん!と乱暴に置いた。
「熱は下がりました。自分の心配だけしてなさい。」
無表情。だけど、
「顔、真っ赤ですよ。」
からかうように言ってしまう。
ヒミズさんはまた何か言おうとして、でも俺があまりにじっと見ているのでついに表情を崩し、とても、とても悔しそうに
「…う…うる…さい…」
と、消えるような声でやっとつぶやいた。
きっと少し前の俺なら、ヒミズさんを怒らせてしまったんだとすごく反省してしまっていたに違いない。
でも、今の俺はちがう。
こんなヒミズさんを、今は身近に感じ、そして、愛おしく思えている。
ヒミズさんはワゴンに戻ると、下段から木箱を取り出してまた戻ってきて、ベッドの脇のサイドチェストの上にばん!と置いた。タオルと着替えが入っているらしい。
ヒミズさんは足早にワゴンへ戻り、ワゴンを乱暴に押して大股で俺から離れていくと、そのまま振り返りもせずに部屋のドアを開け、だけどそこで少し立ち止まった。
「…用があれば、チェストの上にある子機で呼んでください。隣のキッチンに控えていますから。内線の、1番です。」
…俺にからかわれてさぞかし嫌な気分でいるだろうのに。優しさと愛情の塊みたいなこのひとは、本当に、律儀で真面目で、…不器用だ。
ヒミズさんがドアの向こうに消え、直後、ドアが勢いよく一気に閉まる。
部屋が一気に静まりかえった。
…いいんだ。
少しずつで。
ヒミズさんが、俺に少しずつ心を開いてくれたら、俺はうれしい。
こんな素敵なおもてなしが出来るひとだもの。
悪いひとでは、ぜったいにない。
そうだ。
俺がヒミズさんの心を開かせてあげよう。
無理かな?でも、今の俺になら、いつかできる気がする。
店長が俺にしてくれたように、きっとヒミズさんの心だっていつかは晴れる。あの青空みたいに。
4杯目、5杯目は、やっぱりチーズ味にした。
ほどよくおこげがついていて、香ばしさと歯ごたえがさらにおいしくて、そこに醤油をくわえてみるともうスプーンが止まらなくなり、お椀をかき込むようにして夢中で食べきった。
病人だったはずの俺は、ヒミズさんの手料理を最後のひとくちまで飽きることなくおいしく完食した。
そういえば、いつの間にかさっきまでの体のだるさは消え去っている。
ヒミズさんのこの特別製お鍋雑炊のおかげだろう。
おいしい料理は心と体を幸せにする。
治癒力だって高まらせてくれているにちがいない。
ヒミズさんがおろしてくれた少し酸味のきいた甘いリンゴをスプーンですくって食べてから、切りかけだった残りのリンゴも残さずいただくと、俺はひとりで手を合わせ、ヒミズさんに対してごちそうさまをした。
さて。せっかくだからあと少しだけこの待遇に甘えることにして、もうひと眠りさせてもらおう。
用があれば子機で呼ぶよう言われたけど、考えて出来ることは自分でやりなさいとお店でのヒミズさんはよく言っている。
チェストの上に置かれたリモコンに手を伸ばす。「下」と書かれたボタンを押すと、ベッドが平らに戻って行く。
テーブルの横に固定ロックも見つけたので、フックをひねってロックをはずし、ベッドに乗ったままテーブルを足の下まで押しやった。
体を動かすと、たっぷり汗をかいてることが改めてわかり、これは確かに寝る前に着替えたほうがいいな、と思う。
「ふう。」
ベッドから降りると体は軽い。でもまだちょっとふらつく。
(………。)
そこで俺はまた良からぬことを考え付いて子機を取った。
『どうしましたか。』
「ヒミズさーん、体がふらつくんで、着替えるの、ちょっと手伝ってもらいたいんですけどおー」
『……うるさい!』(がちゃっ)
からかい半分の俺の一言に今度は即答で返される。
今度こそ本気で怒らせたのかも。でも、完全無欠なヒミズさんの、新たな一面を開拓できたことを知った俺は、その反応が嬉しくて思わず笑ってしまった。
あのひとほんと…
(かわいいじゃないか。)
あたたかい部屋。
おいしい手料理。
青い空。
ヒミズさんの赤い顔。
そして、少しだけヒミズさんに近づけた気分になれている俺。
俺は、体のすみずみまでを幸せな気持ちで満たしきり、そして、昨日夢の中で見た、あの、神獣のように美しいヒミズさんの笑顔を思い出していた。
また、同じ夢が見られますように。
願いながら、にやついた顔のまま布団のなかへ潜り込んだ。
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キッチンに戻りそのまま這うようにして大理石の床に体を伸ばした。
頭を冷やしたくておでこを床にあててみる。
「……うぅ」
体に力が入らない。熱は下がり体調も万全なのに、とてつもない脱力感に襲われている。
何も考えられない。
春川の姿の、そのひとつひとつが、脳内を激しく駆けまわっている。
眠りから覚めた時の、春川の、あの深い泉のように澄み切った黒目。
みとれてしまっていた。
食事の準備が整ったので起こしてやるつもりが、春川の無垢な寝顔に見入ってしまったのだ。
体を起こされてあわてる春川に差し出したローブ。あれも失敗だった。
食事をとらせるために楽に着られるもの、かつ体を冷やさないものをと思い、クローゼットを探るうちに見つけてしまったのだ。
昔、咲伯 が面白がって買ってきたもの。咲伯宅にはあれの白がある。
捨てたと思いこんでいたが、未開封のまま袋に入っていたそれを見て、ちょうどいいと安易に判断してしまった。
まずかった。
似合いすぎた。
ワゴンを運ぶために再び部屋に入ったときに私の目に飛び込んだのは…フードについたウサギの耳を両手で引っ張っていた春川!
「…あぁ…」
あれは反則だ。
かわいすぎる。
フードが付いていて助かったと思った。
油断し、とてつもなくゆるみきっただらしない顔を、春川に見せるわけにはいかないと思ったからだ。
サイズが大きすぎてフードにすっかり覆われてしまった春川が、その下でもぞもぞと動く都度、これまで経験したこともないような絶大な幸福感におそわれて、私は終始悶絶していた。
認めたくない。だが事実だ。どうしてしまったんだ私は。
あんなのは私らしくない。私ではない。
…だが…
見られた…
突然フードを取りさった春川と、至近距離で目が合った。
冷静さが一気に吹き飛び、とっさにフードをかぶせなおしてしまったが、春川に見られてしまった。
すっかりのぼせあがった、間抜けで締まりのない自分の顔を。
とにかくすぐにでも逃げ出してしまいたかったが、最後の仕上げであるリンゴのシャーベットを作らないことには“本日の冷水 特製ランチコース”はコンプリートしない。
コンプレッサー内臓のアイスメーカーに入れるために急いでリンゴをすりおろしていて…
そして…
――『ヒミズさんのこと、俺、好きですよ。』
「…っく」
卑怯だ!!
突然!隙をついたように!あんな!あんな魅惑的な表情で…!!
「ああ…!!」
寝そべったまま思わず押さえつけるようにして頭を抱え込む。
完全に奪われてしまった。
安定した判断能力を!
平常心を!
冷静さを!
『好きですよ』
わかっている。私のことではない。料理のことだ。
なにしろ私が考案した春川のための特製ミルク粥は完璧だった。
余計な油を削いだ鴨肉をショウガと長ネギと潰したニンニクで煮込み、鴨肉のうま味が溶けだしたスープをベースにしたうえで、栄養補給と胃粘膜を保護する目的でそこに牛乳を加えた。
体を冷やさないようにすりおろしたショウガを足したことで、牛乳や肉などが入っていても濃厚過ぎないあっさりとした味付けに仕上がった。
栄養の吸収を助け、汗で流れたビタミンを補給するために、砕いて煎った無添加のカシューナッツを使い、口当たりにも変化をつけた。
冷めにくいキャセロール鍋を使い、風味を逃がさないためにパイシートをかぶせ、最後はオーブンでさらに熱を加えたから、食べ終わるころにはオコゲも楽しめる。最後まで飽きずに食べられるように、ゴマやチーズ、それに醤油を用意した。
…その料理を作った私を褒めたのだ。
だが……!
『好きですよ』
澄んだ声で紡がれるその言葉の、何にも代えがたい尊さたるや……!
春川の言葉にすっかりかき乱されて…私は…
「…コンプリート…できなかった…!」
耐えられなくなり、リンゴのシャーベットもカラになった器も放り出して部屋を飛び出してしまった…!
(私としたことが……!!)
硬い大理石に頭を打ち付けていると、突然内線電話が鳴り響いた。
春川だ。
あわてて子機を取ると春川の声が聞こえた。
「どうしましたか。」
動揺を悟らせぬよう、なるべく低いゆっくりとした声を出す。
『ヒミズさーん、体がふらつくんで、着替えるの、ちょっと手伝ってもらいたいんですけどおー』
…私の動揺を完全に見破り、咲伯のような口調でからかっている。
「……うるさい!」
一喝して通信を切る。
と、隣の部屋からけらけらっと楽しそうに笑う春川の声がした。
…子機を持ったまま、立ち尽くす。
私は…込み上げてくる不思議な感情をじっと噛みしめていた。
春川に対して完全なる敗北を喫してしまった。それなのに。
私の冷たい闇の部分に一筋の光がさっと射しこみ、そこからゆっくりと、じんわりしたぬくもりが徐々に広がっていく。
私の中の頑ななどこかが、またひとつ、崩されて、そして、春川の軽やかな笑い声にすくいあげられていく。
…それは、これまで経験したことのない、心地よい感覚だった。
青空を吸ったカーテンがまばゆい光にはためくような春川の笑い声は、私の鼓膜を優しく通り抜け、そのあと私の体をくるりとくすぐった。
「…ふ」
思わず笑みをこぼしている。
春川のせいでかき乱されてばかりの私の感情。
春川が現れるまで、こんなことはなかったのに。
(…彼はきっと、あの空から神が遣わせた、極上の天使に違いない…)
それを、全力で守り抜くことこそが、私の存在意義なのだ…
カーテン越しに揺らめく青空を眺めながら、私らしからない、実に陳腐でくだらないことを思ってみたりしている。
もう一度、今度は青空を見ながら床の上に寝そべってみた。
硬い床の上にある自分の体の存在感が、今日はやけに心地よく感じられる。
昨日とは違う妙な高揚感に包まれて、私は、昨日、確かに胸の上にあった春川の、その軽やかなぬくもりを思い出していた。
首元に手をかざし、ふと、そこに彼の温もりを見出そうとしている自分に気づいた私の顔は、確かに笑っていた――
「3月14日」~おわり~
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