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7月3日(水)19:14 最高気温32.7℃、最低気温25.2℃ 晴れのち曇り
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お手数をおかけしますがよろしくお願いします、って、お手数をおかけすると思ってんならそもそもそんなこと言ってくんな、つーかおまかせで、って言ったあとにイメージ出してくんな、とりあえずで頼んでくんな、対象バージョンを途中で変更してくんな、カンプと違うようなんですけどー、って、気づいていたんなら最初から言ってくれそりゃこっちが悪いけど……!
うががががが! と、キーボードを連打する。
さっきから何回か、チャイムが鳴っていたことには気づいていた。でもそんな状態だったから、もういいやと放ったらかしてしまっていた。勧誘だったら出るだけ時間の無駄だし、宅配だったら宅配ボックスに入れておいてもらえるだろう。
まるで千本ノックみたいにコードを書き、メールを打ち返し、気づいたら日がとっぷり暮れていた。
今から何も作る気力がない。外で食べてきてもらうか、何か買ってきてもらうか……ラインしなきゃならない。一緒に暮らし始めて一年半。ひとり暮らしをしていたときと比べて、こういうところはちょっと煩わしいな、と思う。
家事の分担をどうする、と、はっきり決めたわけじゃない。『気づいた方がやる』から始まって、『気づいて』『やった』実績が積み重なって、何となく、洗濯は俺だよね? とか、ゴミ出しはお前だよな? とかいう空気が作られていったような気がする。
本当は別に、日向が料理をしなくてもいいのかもしれない。でも何故か、作らないと、やることをやっていないような、最低限の義務をこなしていないような気がしてくる。
前に、締切に追われてバタバタしていたとき。それでもあり合わせのもので何とか体裁を整えて待っていたのに、日付が変わっても樹は帰ってこなかった。「案件が立て込んでて……まさか作ってくれているとは思わなくて……」と、申し訳なさそうな樹に対し、本当は、何で連絡くれなかったんだとか、ひとことラインする暇もなかったのかとか、待たされた時間分言いたいことはあったけれど、でも冷静に考えたら、別に作ってくれと頼まれたわけでもないのだから強く出るのは恩着せがましい気もして、「いいよ別に、自分のついでに作っただけだし。余ったら明日の昼飯にしようと思ってたところだし。気にしないで、料理って、いいストレス解消になるから。好きでやってただけだから」なんて、必要以上に必死になってフォローしてしまったことがあった。それでも樹は、きんぴらごぼうだけは食べてくれた。
けれどまた別の日、そのときは本当に余裕がなくて、朝食で使った食器もシンクに放置したままで、ヘッドフォンをつけたままだったからしばらく樹が帰ってきたことにも気づかないくらいだった。パソコンの画面から目を離さずに「おかえり」と呟いたら、そんな中途半端な形の挨拶は受け取ってやる義理がないとでも言いたげに、樹は「ふん」と鼻を鳴らした。そんな前段があったから、「夕飯ないの?」のひとことにものすごい攻撃性を感じてしまった。攻撃されたあとじゃもう遅いのに、サッと盾を身体の前に持ってくるみたいに、「今作ろうと思ってた」と食い気味に言って立ち上がった。それもまたあとになって冷静に考えたら、樹はただ、夕飯があるのかないのか、純粋に訊きたかっただけかもしれない。仕事も家事も、何十億何百億というカネを転がすことから、レジ袋をきれいに折り畳むことまで何でも、呆れるくらい完璧にこなす樹と違って日向は、四角いところを丸く掃除してしまうとか、たびたび洗濯機の掃除を怠って服をクズまみれにしてしまうとか、製氷機から溢れさせた氷をそのままにして冷蔵庫の下をびちょびちょにさせてしまったとか、呆れるくらい完璧にいくことの方が少ない。ひらきなおるわけじゃないけど、そういう自分はそういう自分でしようがないと思っていたし、だからこそ樹のようなタイプとも馬が合うんだとも思っていた。やらかしてしまうと凹むけれど、それは表皮にサッとついた擦り傷のようなもので、こんな、皮下組織までえぐってくるような、致命的な感じじゃなかった。疲れていたはずなのに、こんなときに限って手際はおそろしくよかった。風呂から上がって落ち着いたのか、見栄えだけはする料理の圧に押されたのか、樹が「そんな……別によかったのに、お前だって忙しかったんだろ」と漏らしたとき、勝った、と思った。それですべての決着がついた気がして、「ううん、全然」と笑って言った。「あり合わせのもので作ったから全然手がかかってなくて、逆に申し訳ないくらいなんだけど」
美の秘訣? ぜーんぜん、特別なことは何もやってませーん、みたいに、白々しいことを言っている自覚はあった。
「こういうのちゃちゃっとできちゃうって本当すごいな」
樹の発する言葉ひとつひとつに、そのときは有頂天になった。
「慣れれば簡単だよ」
でもそれは長くは続かなかった。
「好きだからできるんだよな」
好き。
好き、とは、こんなに飲み込みずらい言葉だっただろうか。
好き、という言葉を、罪悪感を軽くする免罪符として安易に使うな。
……樹に対して? 自分に対して? たぶん、それは、どっちもに。
「うん、そうだな。俺、料理好きだし。好きこそ物の上手なれっていうか。好きな奴が好きなことやった方がいいよな」
好き、と言うたびに、好きじゃなくなっていく病に冒されてしまったみたいで、ぞっとした。
ちょっと前まではこんな感じじゃなかったのに。好き、というのは言葉は純粋で、きらきらしてて、つまらない日常に侵されたりしない、何かに利用されたりもしない……そんな、尊いものであったはずなのに。
……樹へのメッセージを打たなきゃ打たなきゃと思っている間に、余計なことを思い出してしまった。どうして、『今日夕飯用意できてない』のひとことを打つのに、こんなに躊躇ってしまうんだろう。書いた言葉が、思った意図どおりに受け取られる気がしない。そもそも自分の思いを上手く言葉に置き換えられない。『今日夕飯用意できてないから、だから何か買ってき』まで打って、これじゃあ事務的かと、『今日』の前に『ごめん』と付け足し、土下座の絵文字を選択しようとしたところで、いや何でそんなにへりくだらなきゃならないんだと消し、でも文章の収まりが悪い気がしてやっぱり追加し……というようなことを繰り返し、結局何も残っていないメッセージ欄に、カーソルだけが点滅している。
あれだけめんどくさくて、もう今日はやらないと決意したコーディングの続きをまたやろうかという気になってくる。樹へのメッセージは、<!DOCTYPE html>のままで止まっている。
ふと、樹も同じようなことを思っているのだろか、と思った。大企業を買収するより、すぐ傍にいる奴の気持ちを手に入れることの方が難しい、とか、思っていたりするんだろうか。
間違いはないと思っていたはずなのにふとパソコンを見ると、チェッカーからnot matchと返ってきていた。
赤い警告文字をぼんやり見つめていると、救いのように、スマホの画面が光った。樹から、今日は遅くなるというメッセージだった。これを救いと思っていいのか分からないな……と、通知画面を見ただけですべてが分かる内容だったけれども、一応アプリもひらくと、いつもは通知画面内の文字数に収まるメッセージなのに、めずらしく続きがあった。
『あと、ごめん、宅配受け取ってくれた?』
宅配……?
あ、と思い出し、一階まで降りて郵便ポストを確認する。宅配ボックスに入れてくれているかと思ったけれど、空きがなかったみたいで持ち帰られてしまっていた。再配達を頼める時間はもう過ぎてしまっている。
『ごめん、持ち帰られちゃってた』
するとすぐ、
『じゃあ悪いけど明日受け取っといて。週末のゴルフコンペで使うやつだから』
と、アプリを閉じるより早く返事があった。いつもは既読がついてもなかなか返事が返ってこないのに、めずらしいこともあるもんだ。
『了解ー!』と、これ以上ないくらい弾け飛んだスタンプを送った。
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