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7月7日(日)13:18 最高気温30.7℃、最低気温21.9℃ 晴れ

 7月7日(日)13:18 最高気温30.7℃、最低気温21.9℃ 晴れ  最終の日曜ということもあってか、まずチケットを買うところから長蛇の列だった。その段階でもう絵に対する興味はほぼなかったのだけど、それでもせっかくここまで来たのだからという思い半分、樹に対する腹いせ半分で列に並んだ。お年寄りの団体やカップルや家族連れが多く、その中でひとりの日向はひどく浮いているようで落ち着かなかった。楽しそうな会話を耳にしたくなくて、音楽でも聞こうかと思ったけれど、いくら探してもワイヤレスイヤホンの片方が見つからない。確かにズボンのポケットに入れていたはずだけど……  しつこくポケットの中をがさがさやってしまう。きっと樹がいたら、何をやってるんだと眉をひそめられていたに違いない。ポケットの裏地を引っ張り出して、あっと気づく。裏地に十円玉くらいの穴があいていた。ここから落ちてしまったのかもしれない。何度か親指を通したり引っこ抜いたりを繰り返してみる。見事すぎる穴だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。  なぁなぁ樹……  無駄だと分かっているのに、そう言いたくて言いたくてしようがなくて、喉の奥が苦しい。返ってくる反応は想像がついている。鼻で笑う。そして言う。「今まで何で気づかなかったの」  きっとそれで、以上終了。でも何故だろう、今むしょうに、それを欲している。リアクション薄いなとかもっと関心持ってくれよとかそういう自分のいらつきもひっくるめて、樹を欲している。  二時間待ってようやく入場できたけれど、絵より多く、ひとの後頭部を見ていたかもしれない。  一番の目玉の絵は、チケットやらチラシやら垂れ幕やらにでかでかと印刷されていたイメージとは違って、実物はB5ノートくらいの大きさで、思わず「ちっさ」と呟いてしまった。せっかくここまで来たのだから、と、十数分待ってようやく最前列のポジションを確保したけれど、対面して一秒……二秒、三秒……過ぎても……吃驚するくらい、何も、出てこない。印刷で見るのと違って実際はこんな色だったのかとか、意外と荒々しいタッチだったんだなとか、知識があればもっと見え方も違ったのかもしれない。けれど日向の心に残ったのは、とりあえず「見た」と、スタンプラリーでスタンプを押したときみたいな、コンプリート感しかなかった。はやくどけ、と言わんばかりにぐいぐい押されたときは、チッと思ったけれど、でもそれをはねのけても見続けたい熱意はなかった。  何、してんだろう。  美術館併設の喫茶店で、馬鹿高いアイスコーヒーを啜りながら思う。  今のこの状態を樹に見られて、「何してるんだ」と罵られたら、全面的に降伏するしかない。  それにしてもいい天気だ。織姫と彦星、絶好の逢瀬日和。樹は今頃、「ナイスショット」とか言ってんのかな。……いや、流石にもう終わってるか。  時間を確認するためだけにスマホの電源を入れる。15:58。特に確認しなきゃならない通知も、ニュースもない。自動的にフッとスリープモードになったのを見届けたそのとき、また息を吹き返したかのように画面が明るくなった。 『お前今どこにいんの?』  樹、の文字を見た瞬間、思わず「ひっ」と声が漏れていた。そんなはずはないのに、きょろきょろとあたりを見回してしまう。スタンプも何もないただの文字列なのに、それを言うときの声音とか表情とかまでもリアルに脳内再生されてしまう。  どこって……ここだけど。  思っただけで、返信した気になっていた。  いやいや何を馬鹿な。  意を決してアプリをひらき、『既読』をつけ、画面にふれようとしたまさにその瞬間、パッとまた、メッセージが入った。 『もう着いてるんだけど』  着いてる? は? 何が? 『美術館』  えっ、嘘。  今度は本気で探すために、あたりを見回す。けれどやっぱり、姿は見えない。  急いで席を立ち、レジで釣り銭を返してもらうのを待っている間に、『美術館のどこ』と返す。 『入口んとこ』 『待って、俺も今着いたとこ』  えっ、何、美術館って、一体何なんだよ。何でいきなり来てんだよ。確かに行けるかもしれない、みたいな話にはなってたけど、あの話ってあそこで終わったんじゃなかったのか。いつの間に確定になってたんだ。あの話の流れで。分っかんねーな。ほんと。あいつの頭ん中、一体どうなってんだよ。えええマジ分かんねーんだけど。それならそうってもっと事前にさあ、何かしらあるべきじゃねーの。明日楽しみだなーとか、何時にどこどこで待ち合わせなー、とかそういう前フリ……いやそんなことできる空気じゃなかったか……いやいやそれなら尚のこと何で。一回確定した予定は何が何でも遂行しなきゃならないって思ってんのか。いやそもそもいつ確定したんだ。日向がぼーっとして聞き逃していただけか? 一度言ったことはちゃんと覚えとけ、何度も言わないからな、ってまた怒られるオチか……?  ひとの流れに逆行するように入口の方に向かおうとして、やばい、こっちの方向から行ったら美術館から出て来たことがバレてしまうと気づき、慌てて大回りし、バレないように樹の背後に回る。  樹の姿はすぐに見つけることができた。愛の力で……と言いたいところだけど、休日の美術館でスーツ姿がひどく浮いていた、というのが実際のところだ。  腕時計と日向の顔とを交互に見て、「行くか」と、樹が発した言葉はそれだけだった。  行くか……って、ええ……行きますけど……でも何で、日向が遅れた、みたいなテイになっているんだろう……って、げっ……ということは、また長時間待たなきゃいけないのか。  まったく、一体何やってんだろう。  しかしその心配は杞憂に終わった。昼時ほどの混雑はなく、十分ほどですぐ入ることができた。  まったく、一体何やってんだろう。  神様からのいやがらせだろうか。初めっからこうしていればよかったんだと。樹と一緒に行っていればよかったんだと。  もう既に一回見たということもあって、うっすいリアクションしか出てこない。これじゃあ変に思われると思い、「へえ~初めて見たぁ~」なんてわざとらしく言ってみる。初めて見た、なんて初めて言ったな。「え~分かんない~知らない~そんなの初めて~」とか言う女子の気持ちがちょっとだけ分かったような。てか、初めて見た、って、初来日の絵画なんだから初めてで当然じゃねーか。  さっきの芋の子を洗う大混雑は何だったのかとむなしくなるくらい、名画の前はがらんとしていた。額縁の中で微笑む少女も、ほっと一息ついているように見えた。 「なぁ、樹、これがあの有名な……」  と、呼ぼうとして、めずらしく樹が一枚の絵の前で立ち止まっていることに気づく。  常に一定のスピードで、まるで何かの視察のように淡々と見て回る樹にしてはめずらしかった。  好きなんだろうな……  と、いうことが、分かった。  その絵がどんな意味や価値を持っているか、ということは、日向には分からなかった。でも、樹がそれに心を奪われているんだろうな、ということは分かった。絵と、それを見つめる樹とを、同じ画角に収める。それはとてもしっくりきた。  こんな目で見るんだ。  好きな思いをストレートにぶつけても相手が決して傷つかないと分かっているとき、樹は、こんな目で、こんな風に。  すぐにでも呼んでこっちをふりむかせたい。  そのままずっと見ていたい。

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