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7月7日(日)22:42 最高気温30.7℃、最低気温21.9℃ 晴れ

 7月7日(日)22:42 最高気温30.7℃、最低気温21.9℃ 晴れ  初志貫徹。  ……は、いいことだ、たぶん、普通は。でも、ひとを巻き込むときは勘弁してほしい。  予約はどこもいっぱいで(特に鱧は鮮度が命なので予約がないとなかなか難しいらしい)、結局、電車を二本乗り継いで一時間ほどのところにある日本料理屋まで向かう羽目になった。鱧を食べる、と決意してからは二時間以上経っていた。鱧は確かに美味かったけれど、鱧自体が美味いのか、空腹補正がかかっているのかどうかはよく分からなかった。空きっ腹に日本酒を流し込んだせいで、いつも以上に酔った。「もおやだ~、帰りたくない~、ここにいる~」としつこく樹にもたれかかった自覚はある。これ以上やったら流石にうざがられるかな、と思っても、やめられなかった。だって何度やっても、樹は変わらない調子で、「はいはい」と言い続けてくれたからだ。  駄目だよ、そんなに簡単に許しちゃ。調子乗っちゃうじゃんか。一度調子に乗ったら、相手が想定している以上に調子に乗っちゃう性格ってこと、樹、まだ分かってないのかな。  首筋に顔をうずめたときに、シトラス系の、嗅ぎ慣れないにおいがした。 「何か……樹、いつもと違うにおいがする……」 「におい……? ああ、ゴルフ場で風呂浴びたからかも。……結構香料強いな。焼き肉食ったり酒飲んだりしてんのに、まだ消えてない」 「ふーん……浮気されたときって、こんな感じなのかな」 「は?」 「あーショックー、違う男ん家のにおいを平然と漂わせて、そのまま俺を抱こうとしてたとか。それでバレないと思ってるとか。俺ってずいぶん軽く見られてんなー。つら」 「日向」 「ん?」 「俺がそういうことするタイプだと思ってる? それこそ『つら』なんだけど」 「思ってないから言ってんじゃん。もー分かってないなー。やってみたかっただけ、浮気ごっこ。浮気されて傷ついている悲劇の主人公ごっこ」 「はいはい」  帰るまでずっと、樹のどこかにふれていたような気がする。  これ以上やったら流石に周りからも変な目で見られるかなと自制しようとしたところで、そうだ、自分は今、酔ってたんだ、ということを思い出した。酔ってる。樹は酔った友人を介抱している。それなら肩を抱いていたって密着していたって変な風に思われない。不意に変なところをさわったって、大胆な行動に出たって、酔っているんだからしようがない。  そうだ、酔っているんだ。  そう思いこむと、初めはフリだったはずなのに、だんだん本気で足元が覚束なくなってきた。 「危ないっ」  樹の背中は、加減してもたれないとぺしゃんこになってしまいそうで怖かった。本当に日向が倒れたら、流石に抱え上げるだけの腕力はないんじゃないかと思っていた。それこそセックスのときだってそう。100パーセントの力を預けきることはできなかった。でも危うく側溝に落ちかけたところを引き寄せてくれたとき、100パーセント、すべて、樹に持って行かれて、日向がコントロールできるものは何もなかった。100パーセント、すべて、心ごと。  湧き上がってきた感情に押し潰されないように、心臓が必死に、ばくばくいってくれているようだった。  持って行かれたものを取り返すように、首根っこにぎゅう、としがみついた。こうやったら顔をうまく隠せる、ということに気づき、部屋に戻るまでずっとそうやっていた。  戻ると樹は、いつものようにさっさと風呂に入ろうとした。 「え~……やだ~……入っちゃ嫌ぁ~」  腰にしがみついて阻止する。けれどおかまいなしに、そのままずるずる引っ張られてしまった。 「じゃあお前、先入るか?」 「そういうこと言ってんじゃない~、入んないでさ~、そのまましよ~よ~」 「は?」 「今のそのさ~、いつもと違うにおいしてる樹に抱かれたい……かも、なんて」  樹の動きが一旦止まった。まさか、と期待。でも次の瞬間、やっぱり、と撃沈。不意打ちにデコピン。「いったぁ~」  本当はさほど痛くなかったけれど。そうやって額を押さえるフリでもしないと、いつまでも未練がましく樹から手を離せそうになかったから、丁度よかったのかもしれない。  シャワーの音を微かに聞きながら、さっきまで樹にふれていた手を握ったりひらいたりする。「なんて」とか卑怯な語尾をつけてしまったけれど、本当は結構、本気だった。ズボンの隙間に指を入れて、シャツを引っ張り出して、肌に直にふれたかった。ベルトをはずしてジッパーを下ろしてむしゃぶりつきたかった。たぶんパンツを下ろすのもじれったく、初めはパンツごと咥えていたと思う。ベルトをカチャカチャ外す音とか、ジッパーを下ろす音とかももう脳内再生済みで、その音を聞いただけで勃起して最後までイけそうな気がした。動画の見過ぎかもしれない。実際はそんな、部屋に入る前からキスしたりケツ揉んだり我慢がきかなくて部屋に入るなりドアが閉まる前からなだれ込む……みたいなセックスをしたことはない。そもそも同じタイミングで帰ってくるということがない。とっても不純な動機で、樹と同じ会社に勤めたかったと今、猛烈に思う。いや自分のアタマじゃとても入れないって分かってるけど。帰り、待ち合わせなんかして飲んで帰って。襟元に指差し込まれて、ネクタイ引き抜かれて。あ、今クールビスだから無理か。でも、いいなあオフィスラブ。いやそもそも同じ会社だったら相手にされてないかな。  嗅ぎ慣れないボディソープのにおいもそうだったけど、スーツの樹というのもめずらしくて、ああ、貴重な機会を逃してしまったなあ……と思いながら、宙に浮いていた手をぱたん、と下ろす。泡立ったボディーソープみたいにふわふわした思考で、脳内が埋めつくされていく。  それからどれくらい経ったのか分からない。 「……た、日向」  眠りと覚醒の境界線みたいなところでフラフラしていた。  返事はしたつもりだったけれど、ちゃんと届いているかどうか分からなかった。ため息交じりに呼ぶ樹の声がする。「ほら、お前も風呂、入れよ」 「ん……」  不思議なもので。  目を閉じていても、樹の顔が近づいてくるのが分かった。  今どんな表情で見下ろしているのか。  そっと、額にかかっていた髪をかき上げられた。起きろ、と言いながらも、手の動きは、寝かしつけるみたいに優しかった。  知っている。  樹がどんなときにこんな風にふれてくるのか。  空気清浄機とか、クーラーとか、冷蔵庫とか、録画されている最中のハードディスクとか、いつだって何かしらの音がしていたけれど、そのとき、その瞬間は、すべての音がぴたりと鳴り止んだ。  唇が額にふれる。  聞こえたのは、その音だけだった。  やばい。  やばいやばいやばい。絶対今、変な顔になってる。うわーっ、と叫んで飛び上がりたい。手で顔を覆いたい。でも分かる。樹はじっとこっちを見てる。反則だろ。何やってんだよ。恥ずかしさで海老反った心が、逆ギレ、という反動をつけて、また逆側にぐるんっ、とひっくり返った。ズルい。ズルいズルいズルい。こんなのズルい。ズルすぎる。王子様のキスでお姫様が目覚めるとかいうやつ、あれ、絶対嘘だ。あんなのされたら目覚めるどころか昇天してしまう。いや何自分を姫に例えてんだって話だけど。  今、分かった。  背中に抱きつくときいつも、樹が素っ気ないわけが。  なかなかふりむいてくれないわけが。  遠ざかっていく樹の足音。念には念を、そうっと薄目をあけ、樹の姿がないのを確認してから、「ふあ~……寝てたあ~……」とわざとらしく声を上げた。

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