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第2話

 遅番の日は、十時過ぎにアパートを出る。のんびり歩いても二十分かからない程度。公園を抜けて歩道橋を渡った先の、白いレンガの建物が有加里の仕事場だ。裏口から事務所へ入り、エプロンをつけて、タイムカードを押す。スチールの重い扉を開ければそこは、効きすぎた空調、たくさんの人の静粛、紙とインクのにおいに満たされた、図書館のカウンターへつながっている。有加里は市立図書館のしがない司書だ。  大学を卒業して、そのまま地元には戻らずに就職した。地元へ戻らなかったことにも、ここへ残ったことにも、深い理由はない。人並みに就職活動をした結果、司書としての働き口が見つかったのがこの街だけだったのだ。世は長い長い不況、希望の職に就けるだけで奇跡というもの。もっとも公務員でもなし、市立図書館の司書など待遇としては嘱託職員のようなもので、与えられた仕事を淡々とこなし薄給を得て、慎ましい日々を送るだけだった。  配架作業がひと段落した頃には、昼休憩になる。  朝食を食べた日は、昼になってもあまり腹が減らない。コンビニで買った菓子パン一つをコーヒーで流し込み、一日一本と決めている煙草を吸いに喫煙所へ向かう。  喫煙所と言っても、裏口の狭いひさしの下に、スチール製のベンチとその脇にスタンド灰皿が置いてあるだけの簡易スペースだ。人気の少ないここは、有加里にとって格好の休憩スポットになっている。  うららかな午後、空は明るい薄曇りで、日差しもちょうどいい。メンソールの軽い煙草を吹かしながら手慰みにスマホを弄っていると、ヴー、手の中で短く震えた。 「お疲れ。ちゃんと起きた?今、休憩中?」  英記からだ。 「うん」  とだけ返すと、即座に既読の文字が浮かび上がる。 「えーきは?もう着いた?」  スマホの中でだけ、有加里は彼を「えーき」と呼ぶ。ひらがなと長音記号の組み合わせが可愛いと思う。 「とっくに着いてるよ。国内出張だぞ」  にやりと笑うスタンプ。実物はもっと品良く笑うけど。  商社勤めの英記は、一年を通して出張が多い。今日から三日間は、大阪へ出張だと言っていたっけ。 「えーき、何時に起きたの?」 「五時前かな」  始発の新幹線に乗るためには当然の時刻とはいえ、眩暈がするようだ。朝に強いというだけで、手放しで尊敬できるというもの。気が遠くなりかけたところを、彼の次の一言が引き戻す。 「今朝のゆかり、可愛かったよ」  煙草の灰がぽろりと落ち、慌てて灰皿の上へ持っていく。 「なにそれ」 「おしえない」  寝起きの悪い有加里を面白がって、しつこく話しかけたり、ちょっかいを出したりする英記だ。今朝もどうやら揶揄われていたらしい。 「あ、ごめん、もう行く」 「タイミング合ってよかった」 「また連絡する」 「じゃあ」 「あいしてるよ」  続けざまにメッセージが現れて、画面の向こうの英記の存在感が遠のく。未読のまま浮かんだ了解のスタンプをなんとなく眺めながら、短くなるまで大事に吸った煙草を捨て、有加里は髪を掻き回した。 「あ」  喫煙所に一人でよかった。  間抜けな声を出してしまった上に、今、たぶん、赤くなっている。  そうだ。一回り大きな手に、もっと優しく、髪を掻き回された。 「ゆかり、今日、仕事は?早番?遅番?」 「……うん」 「うん、じゃなくて。早番?遅番?」 「……おそばん」 「俺もう出るから、ちゃんと起きろよ」 「……うん」 「ゆかり、俺のこと好き?」 「……うん」 「愛してる?」 「……うん」 「誰よりも?世界一?」 「……うん」 「俺も」  それから、シェービングジェルのライムの香りが近づき、顔じゅうに唇が降ってきて――夢うつつに、ずいぶん濃厚なキスをしたと思い出す。  今さらになって唇を擦ってみたところで、メンソールの残り香がするだけ。傍目に、いや、傍目なんてものがあったらそれこそ憤死してしまうけれど、二人だけの世界に浸って恥ずかしいことをしたものだ。自分はともかく、はっきり意識があった英記は性質が悪い。  最初はこんな人だと思わなかった。  二歳年上の有能な商社マンで、背が高くて恰好良くて、おまけに料理上手で。バーベキューの時、誰もが舌つづみを打ったスペアリブを漬けてきたのは英記だった。  あの日以来、メールで会う約束をして、何度か会って確かめて、部屋へ招いて。彼が恋人にだけとんでもなく甘い男だと知っているのは、当事者になったからだ。その事実に気付くと、やはり、頬が熱くなる。

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