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第89話

いつまでもトイレに閉じこもっているわけにもいかず、オレは色々な気持ちを一旦すべて無視して洗面所で手を洗う。 頭の中でイメージするのは、精神統一。 よく分からない静かな笛の音や、ししおどしみたいなせせらぎの音を思い浮かべ、オレは心を整えることに全神経を使ってみるけれど。 「……いつまで手洗いしてるつもりなんだよ、アライグマにでもなったのか?」 「いや、あの……」 下着のことを忘れようと思うあまり、手洗いに集中して他のことは何も考えていなかったです……なんて、言えるわけもないオレは、知らぬ間にオレの背後に立っていた白石さんになんて返せばいいのか分からなくて口篭る。 すると、白石さんは困ったように薄く笑ってオレにタオルを差し出してくれた。 きっと、ちょっぴり気まずい思いをしているのはオレだけではないんだろう。そう思うと、オレは変に白石さんのことを意識しない方がいいのかもしれない。 そんなことを考えながら、オレは白石さんの後を追ってリビングに戻ると、着替えを済ませていく。今度はちゃんと下着を身に着けて、白石さんから貸してもらった服は丁寧に畳んで。 そうして、ようやくオレはオレの服を着ることができたけれど。白石さんの服はオレが着るとダボダボだったのに、なぜかそれが心地よく感じていたことに、オレは着替えてから気がついたんだ。 ゆったりとした朝の時間は、オレの頭が下着のことで右往左往している間にも過ぎていってしまう。それが心細く感じるのは、白石さんが作ってくれたサンドウィッチにまだありつけていないせいなんだろうか。 ……もしかしたら、別の理由があるのかもって。 白石さんのことを考えると無駄にドキドキしてしまうオレは、半分くらい分かっている自分の感情にあえて知らないふりをする……目の前にある美味しそうなサンドウィッチを美味しく頂くために、だ。 「あの、本当にサンドウィッチ作ってくれたんですね。とっても美味しそう……えっと、頂いてもいいですか?」 「ん、どーぞ……ってか、お前のために作ったからな。食ってもらわねぇーと、作った意味がなくなっちまう」 ソファーの端にちょこんと腰掛け、白石さんに確認を取ったオレだったけれど。オレの方に伸びてきた白石さんの手は、オレの頭をわしゃわしゃと撫でていくんだ。 白石さんの声も手も、何もかもが優しさで溢れているみたいに。白石さんのちょっとした言動が、オレの心をふわりと軽くするから。 「いただきますっ!」 ふにゃりと緩んだ頬を隠すこともせず、オレは両手を合わせた。 ベーコンとレタスとトマト、所謂BLTサンドってやつと、ふわふわな厚焼き玉子が柔らかな食パンに挟んであるタマゴサンド。どちらを先に食していこうか迷った結果、オレが先に手をつけたのはタマゴサンドだった。 「……美味しい」 優しい玉子の味を包み込む、バターとマヨネーズ。パンの香りと小麦の甘さが引き立つサンドウィッチは、とても温かくて、ほのかな幸せの味がした。

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