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第169話
【星side】
一度は、坊主まで考えを巡らせた前髪事件だったけれど。ランさんの計らいで、ソレも佳境を迎えようとしている。
「……昌人、お前さ。テメェの勝手な持論で、生徒の自由を奪うな。テメェの義理を通すんなら、生徒の髪切る前に俺の髪切りに来いやッ!!」
オープン前の僅かな時間で、オレの相談を訊き入れてくれたランさん。そんなランさんは今、カウンター奥の厨房で扉越しに叫んでいるようで。
「白石さん、あの声の主は、ランさん……ですか?」
「一人称が私じゃねぇーから、もしかしたら別人かもな。この店には俺とお前以外、店主のランしかいねぇーけど」
ということはつまり、罵声を上げているのはランさんで間違いない。だとすると、通話の相手はおそらく横島先生なんだと思う。
ランさんの豹変ぶりは凄まじく、オレは少し身を縮めてしまう。途切れ途切れに聴こえてくる怒鳴り声に、オレまで怒られているような気分になってくる。
でも、白石さんは違うようで。
「ラン、すげぇー剣幕で吠えてんなぁ……普段は女の成して、キレたら漢が出てくんだから。アイツは本当に、正真正銘のオカマだ」
ランさんが豹変中のあいだ、白石さんは煙草を咥えていて。オレはそんな白石さんの隣で、白石さんの横顔を眺めて声をだす。
「いや、えっと……ランさんは今、オレのために別人になってくれてると思うから。だから、そんな言い方はっ」
「貶してねぇーよ、褒めてんの」
そう言いつつも、白石さんの口元はニヤけている。貶していないのは本心なんだろうけれど、褒めているかは分からない様子の白石さん。
「それに、向こうの都合に合わせて俺たちまで険悪になる必要はねぇーだろ。星、怖がらなくても大丈夫だ」
オレが怖気付いていることに、白石さんは気づいていたんだ。いつものように気怠く、煙草を咥えてオカマ評論をしているんだと思っていたけれど。
その真意は、オレに向いていた。
白石さんの心遣いに、気持ちがふわりと温かくなる。それと同時に、触れられた指先も熱くなって。ゆっくりと絡められ、繋がれた手に安心する。
「白石さん……うん、ありがとうございます。オレ、白石さんの優しさに助けられてばかりですね」
そのままのオレをちゃんと受け入れて、理解して、そうして、欲しい言葉をくれる。白石さんが少し先を歩いていても、オレに合わせて立ち止まり、手を取って歩んでくれる。
兄ちゃんからの優しさとは違う、白石さんだけが持っている特別な温かさ。こんなにも温かい気持ちをくれる白石さんは、優しい人だと思うのに。
「んなことねぇーよ、気にすんな。俺はお前が思ってるほど、優しい人間じゃねぇーから」
一瞬、白石さんの瞳が鋭く揺れて。
「…ぁ、んっ」
頭を片手で抱え込まれ、奪われた唇。
厨房では、ランさんの声がまだ響いている。
けれど、優しくない人からの口付けを受け入れたオレは目を閉じて。
「星、愛してる」
今だけ。
この瞬間だけは、白石さんが意地悪で良かったと……そう、思ってしまうオレがいるんだ。
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