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第340話

「……すげぇー美味かった」 思い返してみれば、ランの店に初めて行ったときもこんなふうだったように思う。やたらと美味い店を知っている兄貴は極たまに、俺をこんな店に連行するときがある。 「可愛いやーちゃんに、俺からのご褒美……なんて言うのは、まだ早ぇな」 食後にエスプレッソを飲んでいる兄貴は俺にそう言って微笑んでくる。俺の知らない兄貴の笑い方、こんなに優しく笑う飛鳥を俺は今まで見たことがない。 小さい頃から兄貴の言うことを聞かなかった日は殴られてきたし、学生時代の兄貴は誰も手がつけられないほど荒れ狂っていたし。女遊びが激しいことと、俺様気質がすぎることは変わっていないけれど。 ……クソ兄貴のクセに、すげぇーカッコイイなんて思った。 デートという名目だからなのか、それとも別の理由があるのかは定かじゃないが。 真っ直ぐに俺を見て、穏やかに微笑む飛鳥。 けれど、一瞬にして場の空気感を変えたのは、そんな飛鳥の一言だった。 「お前さ、コーチになってみる気ねぇか?」 「……コーチって、一体なんのコーチだよ?」 「んなもん一つしかねぇコトくらい、ガキなお前でも分かんだろ」 そう言われ、思い浮かぶのは確かに一つしかないけれど……一度は必死で、無我夢中で追いかけた夢。 でも、まさか。 「……サッカー、とか言わねぇーよな?」 「ご名答だ、やーちゃん」 「ウソだろ?なんで今更……」 少しだけ張り詰めた空気の中、突然告げられた言葉に、俺は困惑した表情を隠しきることができない。 「今更か……まぁ、そうだわな。でも、お前まだ19だろ。これから先、その仕事で食っていく気はねぇかって訊いてんだ。すぐに返事しろとは言わねぇ、俺も詳細はよく知らねぇし」 「仕事って、ちょっと待て……どっからそんな話……」 「それは、ナイショ。ただ、コレだけはやーちゃんに渡しといてやるよ。お前の時間あるときにソイツに連絡しろ。詳しい話は、ソイツから聞け」 そう言われ、受け取った一枚の名刺。 兄貴の話が嘘じゃないことは、その名刺に書かれた内容を見れば明らかだった。サッカー経験者なら一度は聞いたことのある、名高いサッカースクール。 「……マジじゃねぇーかよ、コレ」 理解し難い話に、俺はついていくことができないまま。困惑している頭をなんとか整理しようとしてみても、これが現実だとは思えないのだが。 「ご褒美、気に入った?」 何処で何があったら、クソ兄貴の飛鳥が、この名刺を手に入れることができたのだろう。けれど、きっとこれが、わざわざ兄貴に帰ってこいと呼びつけられた理由に違いない。 ……ご褒美は貰ってから決めろって、こういうコトだったのかよ。 「アリガトウゴザイマス」 とりあえず礼を言ったものの、突然のことで動揺を隠しきれない俺は、店を出た兄貴の背中をやたらと大きく感じることしかできずにいた。

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