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第392話

「雪君、お疲れさま。随分慣れてきたように思えましたが、雪君まだ今日で三回目でしたね。さっき事務所でシフトを確認して、僕一人で驚いてしまいました」 事務所に戻り雑務を終えて、家に帰ろうとする俺に声を掛けたのは竜崎さんだ。竜崎さんは他のコーチがいない場所で、俺のことを雪君と呼ぶから。 「お疲れさまです、竜崎コーチ……まだまだ慣れないことだらけです。今日も、俺は竜崎コーチに助けられてばかりで……」 「たった数回のレッスンで、あれだけ子供たちの心を掴めれば充分です。リフティングも一度で成功させちゃいましたし、本当にお手本になる見事なボールタッチでしたよ」 「ありがとうございます」 小さい頃に、アホほど練習したリフティング技を今更になって披露するときがくるなんて俺は思っていなかったが。竜崎さんから見て、合格点だったなら過去の努力も報われるだろう。 「雪君が楽しんでボールに触れる姿を見て、子供たちも自然と雪君に惹かれています。まずは、子供たちに信頼してもらうこと……コーチとして、指導者として、子供たちに受け入れてもらうことが何より大切ですから。今の雪君は、それが出来ていますよ。子供たちは本当に、見る目がありますね」 この仕事では、今まで俺がしていた上っ面だけの笑顔は役に立たない。けれど、好きなボールに触れることができ、素の自分でこんなに楽しいと思えるのは、今までに経験したことないものだから。 「サッカーにおいて、連携はとても重要です。個々の技術や能力を高めていくのはもちろんですが、コミュニケーションを大切にする……それが、ここのスクールの教えです」 お疲れさまと付け加えて、竜崎さんから手渡された缶コーヒー。穏やかで柔らかい雰囲気の竜崎さんは、仕事をしていても初めて会った時に抱いたイメージが崩れない人だ。 渡された缶コーヒーの礼を言い、深々と頭を下げた俺に、竜崎さんはにっこりと微笑んでくれる。 「雪君のように、様々な事情で夢を諦めてしまう子供たちは少なくありません。一人でも多くの子供たちに寄り添ってあげてください。今は一生懸命にボールを追いかける子供たちが、やがてプロのピッチで活躍しているかも知れませんからね」 そう話してくれる竜崎さんは、俺がこの先、目指すべき存在なんじゃないかと思う。 もしも俺が幼い頃に、竜崎さんのような指導者に出逢えていたら。家庭の事情や悩みごと、サッカーに関することだけでなく、多くの相談ができる有能なコーチに出逢えていたのなら。俺には、別の未来が待っていたんじゃないかと考えてしまう。 けれど。 だとしたら、俺は星に出逢えてなかったのかもしれない。今更過去を悔やんでも仕方がないし、たらればの話をしても意味がない。 それならば、伴に生きていきたいと想えるアイツに出逢えた今に、感謝すべきなんだろう。 大事なのは、これから先の未来だ。

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