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第526話

「ボールは誰よりも優しく接しなければ、害を与えてくる。僕がボールを愛しているから、彼女がお返ししてくれるのだと……雪君の彼女は、随分と嫉妬深いようですね」 「彼女……」 「優しくした分だけ、触れ合った分だけ、ボールは雪君に応えてくれます。ある意味、ボールは自分を写し出す鏡なんですよ。いつも夢中になってボールを追い掛けている雪君のちょっとした心の変化に、彼女は気づいているのでしょう」 本来、何も語ることはないボール。 俺の扱い方次第で、その動きは良くもなれば悪くもなる。当たり前のことだが、そのことを再認識させてくれた竜崎さんは、やっぱすげぇー人だなって。 そう思った俺に、竜崎さんから続けられた言葉はサッカーとは無縁のものだった。 「まぁ、でも。そこまで嫉妬深い女性の相手なんて、僕にはできませんがね。実際のところ、どうなんでしょう……雪君は、そんなボールより大切にしたい恋人がいますか?」 「まぁ、ハイ……それなりには」 突然の質問に、回転不足の俺の頭は曖昧な答えを返したが。クスッと笑った竜崎さんを見て、俺に恋人がいるなんて話を竜崎さんにしていないことを思い出した。 「不意打ちに弱いんですね、雪君には恋人がいることが分かってしまいました。いやぁ、ずっと気になっていたんですが、雪君は見かけによらず真面目なので……たまには、砕けた会話を楽しみたくて」 「竜崎コーチこそ、そこんとこどうなんですか?」 「さて、どうでしょう?なんて、浮いた話など何もありません……彼此5年は、独りの寂しさを味わっていますよ。今の僕には比喩でもなんでもなく、まさしくボールが彼女ってとこでしょうかね」 そう言って柔らかく微笑んだ竜崎さんから、俺が学ばなければならないことは山ほどあって。わざわざこんな俺に付き合ってくれた竜崎さんに、俺は心からの感謝を込めて礼を言い、その後事務所に戻って雑務をこなしていた。 他のコーチとたわいもない会話をしつつ、一通りの勤務を終え、俺が家に辿り着いたのは日付が変わった後。 俺を出迎えるアイツの姿は今日もなく、星がいない空間に、アイツの色だけが交ざった部屋。二本並んだ歯ブラシや、揃いのマグカップ。減ることのなくなったココアでさえ、今じゃ星くんの存在を寂しそうに待っている気がして。 「俺、もうダメかもな……」 寂しくて死んじゃう、なんてことになりそうなくらい心細く感じる日々。これがいつまで続くのか……考えたくないマイナスなことばかりが頭に浮かび、酒と煙草の量だけが増えていく。 弘樹と交わした約束を、守れなかった自分を恨んで。ただひたすらに相手を信じ待つことが、どれだけ辛く苦しいものかを俺は初めて知ったから。 星が抱えていた辛さを実感し、それでも受け入れようとしたアイツの想いに向き合った時。星が流したものと同じ涙が、俺の頬を伝っていた。

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