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第586話

「まずは、お疲れ様。雪君はブラックで良かったかな?とりあえずコレ、飲みながら聞いてくれればいいですのでどうぞ」 会議室の長机を挟み、向かい合って座った俺に、竜崎さんは缶コーヒーを手渡してくれる。 「ありがとうございます」 俺がコーヒーの礼を伝えると、竜崎さんは穏やかな笑顔を崩すことなく俺を見た。 「雪君、そんなに硬くならなくて大丈夫ですよ。んーと……そうですね、何処から話していきましょうか」 微糖の缶コーヒーを口にし、そこで言葉を区切った竜崎さんだが。畏まってこんなふうに上司と二人で話をするのは、俺だってそれなりに緊張する。 何を言われるのだろうと思いつつ、このタイミングで缶を開けてコーヒーを飲まないと、飲み逃すと思った俺は、竜崎さんが話し出す前にプルタブに触れた。 カコンと鈍い音がして、いつもより苦く感じるコーヒーをある程度流し込んだ後、俺は竜崎さんの話を聞くことに集中する。 「雪君にはコーチとして、うちのスクールで活躍してほしいと思っています。雪君さえ良ければ大学卒業後、正式に務めてもらいたい……って、その書類はもう手元に届いていますよね?」 「あー、はい。有難いことに」 「そのことでの話なんですが。僕が見ているうちの一校、ここのスクールを雪君に任せたいと思っているんです。ただ、それにあたって雪君には研修を受けてもらわなきゃならなくて」 先輩のコーチたちも、各自それぞれ受け持ちのスクール校があるのは知っている。ただ、俺がそんな話をされるのは、ずっと先のことだと思っていたのに。 まだ正式に入社すらしていない俺に、こんな話が舞い込んでくるなんて誰も予想しないだろう。俺だってしていないのだから、当然の話だ。それでも俺を見る竜崎さんの瞳は、嘘を言っているようには思えなくて。 「あの、研修の具体的な内容を教えていただけますか?」 そう尋ねた俺に、竜崎さんは軽く頷き口を開いた。 「今年の6月から12月までの約半年間で組まれている、長期研修です。研修というのは名ばかりで、どちからというと観戦ツアー旅行のようなものですが」 「……旅行、ですか?」 研修で、ツアー旅行ってどういう意味だ。 さっぱり話が呑み込めない俺は、竜崎さんの言葉を聞き返すことしかできない。 「スペイン、イタリア、ドイツの三カ国を回って海外リーグのサッカーを肌で感じて来てください。とても魅力的な研修ですから是非、雪君には参加してもらいたいと思っているんです」 ……海外研修があるなんて、そんなもん先輩からも聞いてねぇーぞ。しかも、半年って。 「今のうちに、その研修を受けてもらえると僕としてはありがたいです。研修終了後、来年の春から引き継ぎを開始して、その翌年には雪君にお任せできますから」 竜崎さんの声が、遠くに聞こえる。 頭が真っ白になるって、こういう時のことを言うのか。

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