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第588話

家に帰って竜崎さんから渡された書類を確認した俺は、ついさっきまでの時間が現実だったことを知った。 話を聞いた時は、星のことしか考えられなかったが。書類を見れば見るほど、読めば読むほど、研修内容の魅力に惹かれてしまう俺がいる。 研修で予定されてる三カ国では、シーズン開始が8月からで。6月から8月まで選手たちがオフの間に、ユースクラスの指導内容を見学できる研修プラン。その後、シーズンが開始されたら海外リーグの試合を観戦。 スペインのリーガエスパニョーラ、イタリアのセリエA、ドイツのブンデスリーガ……この研修には、夢が詰まり過ぎている。 そして、もう一つ。 先輩コーチたちが何故海外研修の話をしないのかが、書類を読んで明らかになった。将来性のある人材のみが選出され、この研修に参加できるのだと。 通常であれば、スクール校を受け持つために必要な研修は二週間の国内研修だけで済むらしく、海外研修に参加できるコーチは極わずからしい。 だからこそ、声が掛かった今のうちにと竜崎さんは言ってくれたんだろう。俺が話を聞いていた時に感じた竜崎さんからの圧も、この書類を読んで納得がいった。 指導者として、上司として。 そして、尊敬できる大人として。 あの人との出会いは、俺の考え方を大きく変えてくれた。そんな竜崎さんの期待を、裏切るようなことはしたくないけれど。 ただ、星と離れるのは正直俺が辛い。 たかが半年……いくらそう自分に言い聞かせてみても、1ヶ月会えなかっただけで死にそうになった俺が、半年間も星と離れてしまったら生きていけるとは思えない。 誕生日だって祝ってやれないし、進路の相談にも乗ってやれない。頼れる友人は俺が日本を経つ頃に教育実習で、大事な弟に構っている暇はなくなってしまうだろう。 「……どーすんだよ、マジで」 思考がグルグルと渦を巻き、俺は心の声をそのまま呟いた。テーブルの上に広げた書類をただ呆然と眺めつつ、俺は煙草に火を点けていく。 煙を吸い込み、ゆっくりと呼吸してみても。乱れた心は不安定なまま、紫煙だけが部屋に漂い消えていった。 一度は諦めた夢を、また新たな形で追いかけようと思えたのは星がいるからなのに。 その星の存在が、こんなにも大きくて。 ここまできて、自分の夢なんてどうでもいいんじゃないかと思ってしまっている、弱気な自分も嫌だった。 どちらか一方を、選ぶことなんてできない。 けれど、これが星との永遠の別れじゃないことくらい俺だって分かっている。 半年間、耐えればいいだけの話だ。 それがてきないと思うのなら、今回の研修は辞退すればいいってことも充分理解はしている。 ……分かっちゃ、いるけどよ。 自分の夢と愛する恋人を、天秤に掛けなきゃならなくなる日がくるなんて……人生は本当に、何が起こるか分らない。 そんなことを思いつつ、書類を手にし悩むだけ悩んで。結局答えが出ないまま、俺は一睡もできずに次の日の朝を迎えていた。

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