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第620話
古びた建物に、どこか懐かしさを感じる。
ご自由にどうぞと言わんばかりに、立ち入り禁止のチェーンが壊された駐車場に堂々と車を止め、俺は星に声を掛けた。
「せーい、星くん」
「ゆきやぁ……さん、抱っこして……」
俺の呼びかけに反応して、ブランケットに包まれていた両手を伸ばし、俺に甘えてくる星くん。思いの外すんなり目覚めてくれた星だが、うちの仔猫さんが完全に寝惚けていて俺より先に弘樹が笑った。
「ハハッ、セイちゃんすげぇ可愛い」
「バカ犬、それは俺のセリフだ。星、抱っこすんのは構わねぇーけど、後ろに弘樹いんぞ。そんでもするか?」
「へ……えっ!?ウソ、ここどこ!?」
「俺の秘密基地」
「白石さんが小さい時に、遊んでた場所らしいぜ?」
俺と弘樹の言葉を聞いても状況が把握できていない星は、一人でアタフタしながら顔を真っ赤に染め上げていた。
寝起きの星くんと妙に力が有り余っている弘樹を連れ、俺がやってきた場所は、実家の近くにある小さな広場だ。公園と呼べるほど遊具がある訳じゃないこの広場の真横には、廃墟とかした公民館が今も残されたままになっている。
「此処も、随分錆びれちまったな」
錆びれたといっても特に何かあるわけでもなく、公民館の落書きだらけの壁と、日陰にベンチがあるくらいだが。ついさっき、車内で交わした弘樹との約束を果たすには、打って付けのグランドだった。
「雪夜さん、ここどこですか?」
ふぁーっと猫のような欠伸をし、車から降りた星くんは俺を見上げてそう尋ねてくる。そんな星の横で、スパイクに履き替えている弘樹の眼は本気だ。
「秘密の練習場所、ガキん時によく此処で自主練してたんだよ。夜中は兄貴達のたまり場だったから、そこの壁は酷でぇーコトになってっけど。叫んでも喚いても、人なんて来ねぇーからやりたい放題できんの」
此処は、俺の中で始まりの場所でもあり、終わりの場所でもある。リフティングが出来るようになったのも、ルーレットとかシザースとか、そういった足技が出来るようなったのもこの場所。
ナショナルトレセンを辞退した時、独りで悔し涙を流したのも、兄貴達に引きずり回されて夢を諦めたのもこの場所。
いつか、俺の中で心の整理がついたら。
そのときは、俺の全てを知りたいと望む星を連れてくるつもりでいたけれど。それがまさか今日になるなんて、俺は思っていなかった。
でもまぁ、それも運命なんだろう。
偶然が必然に移り変わる瞬間を、星と出逢ってから俺は何度も経験しているから。
目指す夢と、愛する恋人。
おまけのおまけで、敵対心剥き出しのバカ犬を連れて此処に来られたこと。それは、此処での嫌な思い出を振り切るために必要な時間なのかもしれない。
「白石さん、ガチの勝負しましょう。俺、マジでいくんで、白石さんも絶対に手抜かないでください」
車内で、弘樹と交わした約束。
それは星の前で、一対一の真剣勝負をしようというものだった。
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