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第644話
過ぎていくときは、巻き戻せない。
時間が止まることはなくて、オレたちは前に進むしかないから。
車をお兄さんに預けてしまった雪夜さんは、明日から学校があるオレをタクシーで家まで送り届けてくれた。
移動中は、一定の距離感を保ちながら後部座席に二人で座っていた。それでも、運転手のおじさんに爽やかに笑う雪夜さんを盗み見たり、雪夜さんの綺麗な横顔を眺めたりして、オレの心は忙しかった。
そうして、今。
オレは家の裏の公園で、雪夜さんと一緒にいられる最後の時間を過ごしている。
「ちゃんといい子で待ってろよ?」
「うん……」
桜の木の下で、オレを包み込むように抱き締めてくれる雪夜さん。夜風が頬を撫でていき、離れなきゃいけないのに離れられなくて……オレはここが外だと分かっていながら、雪夜さんの首に腕を回していた。
「星、愛してる」
「……オレも、雪夜さんが大好きです」
やっぱり、やっぱり、やっぱり。
離れたくなんかないよ、雪夜さん。
蒸し暑く感じる今の季節から、本格的な夏を迎えても。緑が赤く色付き、この桜の木が紅葉し始めても。その葉が落ちてしまって、寒さを感じる冬になるまで。
オレは、雪夜さんに会えなくなってしまうんだ。半年なんてあっという間だって、そう雪夜さんを説得したオレは、何処にいってしまったんだろう。
昨日せっかく雪夜さんが、オレの瞼が腫れぬように手当てしてくれたのに。このままじゃ、オレは確実に泣いてしまうし、家にすら入れない。
まだ雪夜さんと触れ合っているのにも関わらず、襲ってくる寂しさにオレが負けそうになったその時だった。
抱き着いてるオレを引き剥がすことはせずに、ジーンズのポケットから新品の煙草を取り出した雪夜さんは、そこから一本を口に咥えてシルバーのジッポで火を点けていく。
甘く香るこの匂いとも、さよならしなきゃいけないんだってオレは思っていたけれど。カシャンと可憐な音が響いて揺らめく火が消えていく。
雪夜さんの片手で、煙草の箱と重ねられたシルバーのジッポ。唇だけで煙草を咥える雪夜さんは、片目を瞑っていて。その仕草も表情も、かっこよくて思わず息が漏れた。
「……ん、コレお前に預けとく」
そう言って深く呼吸した雪夜さんは、オレが着ていたパーカーのポケットにその二つを突っ込むと、煙草を咥えたままオレをぎゅっと抱き直した。
「あのっ、コレって……」
雪夜さんが愛用してるジッポと、初めて会った時の香りがする煙草。それは雪夜さんがすごく大事にしている物だってことを、オレはよく知っている。
だから、だからホントにオレが持ってて良いのか訊きたくて、オレは視線だけを雪夜さんに向けてみる。オレの長い前髪が邪魔をし、暗闇の中で雪夜さんの顔はよく見えなかったけれど。
その時の雪夜さんの表情は、とっても優しく笑っているように見えて……何故だかさっきまで感じていた不安や寂しさが、ふっと解けていく感じがしたんだ。
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