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第673話
あの状況で竜崎さんからの誘いを断ることも出来ず、大人しく上司に従いやって来たのはホテル近くのバルだった。
「さて、とりあえず飲みましょうか。お疲れ、雪君」
「……お疲れさまです」
竜崎さんと、俺の二人。
酒を飲むどころか、個人的に食事をしたことさえ一度もない俺は、地味に緊張してしまうが。とりあえず互いのグラスを合わせて挨拶をし、ひと口流し込んだ酒の味は美味かった。
「そろそろ限界だって、昼間に雪君が話していたことは本当でしたね。ミーティング中、見事に上の空状態だった雪君を見て、僕は笑いを堪えるのが大変でした」
「あー、それは本当に反省中です」
堪えていた分が今更になり溢れてきたのか、竜崎さんはクスクス笑って腹を抱えている。あどけない笑顔を見せるこの人が、俺の上司だなんて……側から見たら、そんなこと誰も思わないだろう。
「雪君は足だけでなく、手も器用なんですね。ペン回し、とても上手でした」
ただ感情に任せて説教されるより、穏やかに痛いところをつかれる方が辛い。兄貴と竜崎さんのことを考えている間、俺は左手に持ったボールペンを回しながら竜崎さんの話を流し聞きしていたから。
話を聞く姿勢ではなかった俺、そんな俺の態度に怒りを通り越して竜崎さんは笑っているんだろうと思ったが。
「有言実行って感じで、限界がきている様子が見て取れる雪君の態度に、この子はどれだけ素直な子なんだろうと思ったんです」
いやぁ……参りましたね、と。
ふんわり微笑みそう言う竜崎さんこそ、どれだけ温厚な性格をしているんだろうと不思議に思ってしまうけれど。
見るからに子供好きで、サッカーが好きなことは聞かなくても分かる竜崎さんだが。それ以外で何か理由があるなら知りたいと思った俺は、竜崎さんにあることを尋ねてみることにした。
「あの、竜崎さんはどうしてこの仕事を?」
いつでも訊けることだったのかもしれないが、なんとなく気になったことを尋ねた俺を見て、竜崎さんから笑顔が消えた。
「僕には、運がなかったんです。90分間フルで走れるだけの肉体を、僕は持っていないんですよ。生まれつき心臓が弱かった僕は、いつもベンチを温める役でした」
静かに話し出した竜崎さんは、自らの過去を語ってくれて。和やかなムードが一転し、しんみりとしたなんとも言えない空気感に包まれた俺達のテーブル。
異国の地で知ることになった竜崎さんの少年時代は、レギュラー入りすることさえ叶わない、か弱い男の子だったらしい。
「最初は体力づくりの為にサッカーを習ったんですが、気づけばその魅力に取り憑かれてしまって……いくつになっても、僕はボールに触れていたいと思うようになっていたんです。何も出来ない僕でも、好きなことで誰かの役に立てたらと……ね」
竜崎さんからの、最後の一文。
聞き覚えのあるそのセリフで俺の頭の中に浮かんだのは、自分の夢を追いかけようとする、愛する星の姿だった。
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