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第687話

「え……」 兄ちゃんに言われた通り、しっかり戸締まりをして、ちゃんと鍵もかけて。それと、兄ちゃんには言われてないけれど、ステラにキスをしてあげて。雪夜さんのマンションの下に丁度20分後に下りてきたオレは、目の前で停まっている車を見て驚いてしまった。 オレの兄ちゃんは、普通自動車の運転免許を持っているけれど、運転はしない。そう、兄ちゃんは運転しない……と、いうことは。王子様の兄ちゃんを乗せてくれる執事の優さんの車が、オレの前で停まっているってことなんだ。 迎えに来るって、てっきり兄ちゃん一人だと思っていたオレは、緊張で硬直してしまう。 「せい、とりあえず乗って」 助手席のドアから姿を見せた兄ちゃんは我が物顔でそう言うと、後部座席のドアを開け、オレが車に乗るよう促してくるから。オレは戸惑ったまま、ちょこんと優さんの車に乗り込んだ。 「あの、お邪魔します……あ、えっと、こんばんは」 初めて乗せてもらう、優さんの車。 なんて挨拶をしたらいいのか分からなくて、オレの斜め前にいる優さんにぺこりとお辞儀をしたオレは、とりあえずシートベルトをつけた。 そんなオレの行動を確認し、兄ちゃんは後部座席のドアを閉めると助手席に乗り込んで優さんを見る。 「大事なせいがいるんだから、ジェットコースターにはしないでね」 「仰せのままに。それと、こんばんは星君。すまないが、今から俺達に付き合ってほしい。俺のことや光のことで、星君には辛い思いをさせてしまったようだから」 「あ、いえ……あの、よろしくお願いします」 何をよろしくお願いするのか、オレもよく分からないけれど。オレと兄ちゃんの険悪なムードが漂う車内で、オレは優さんにそう挨拶をするしかなかった。 甘いベリーの香りがしない車内は、清涼感のあるウッディ系の香りがする。エアコンに流れて香ってくる兄ちゃんの香水の匂いは、いつもの王子様の香り。 静かに動き出した車の中で、後部座席から見る兄ちゃんと優さんの姿はいつも通りで。王子様とその執事、弾むような会話はないけれど、阿吽の呼吸で言葉を繋ぐ二人。 オレと雪夜さんのように、兄ちゃんと優さんのあいだには甘い空気が漂うことはない。それなのに感じる二人の信頼性が、オレの心を乱していく。 ブレーキの加減が、雪夜さんよりも荒い優さんの運転。スピードを違反することもなく、大きく揺れることもない車。けれど、信号のタイミングで優さんがした舌打ちの音は、オレの耳まで届いている。 とてつもなく気まずい車内、オレは何処へ連れ去られてしまうのだろうと外の景色を見て。ここに雪夜さんがいたならって、叶わないことを考えながらオレはぐっと唇を噛んでいた。 何度か優さんが、オレに気を遣って話かけてくれたりもしたけれど。いつの間にか途切れてしまう会話と、兄ちゃんのように上手く平然を繕うことのできない自分自身に、オレは新たな苛立ちを感じていた。

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