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第689話

すっごくドキドキするのに、心臓の音が不協和音のように聴こえるのはなぜだろう。 雪夜さんが傍にいないのに、オレは平気な顔なんかできない。自分の幼さを痛感するのは気持ちのいいものじゃないけれど、それでも心に蓋をして笑うのは違うと思った。 オレが知りたいことをなかなか話し出してくれない兄ちゃんから、まずは食事しようと提案されて。コクリと頷いたオレは、たくさんあるメニューの中から迷うことなくオムライスを選んだ。 高校を卒業したら、オレはここのお客さんじゃなくなる予定だけど。注文を取りにきてくれたランさんは、いつものように柔らかく微笑んでくれた。 それだけじゃない。 ランさんは、この場で緊張を隠しきれていないオレの違和感に気づいたのか、オレの耳元で優しく囁いてくれたんだ。星ちゃんの分は特別に、スペシャルオムライスにしてあげるわって。 ランさんのそのひと言が、今日はあまり食欲を感じていなかったオレの脳を叩き起してくれた。気持ちは沈んでいるし、兄ちゃんと優さんの顔を真っ直ぐ見ることはまだできないけれど。 雪夜さんがオレに預けてくれた大切な物と、ランさんの気遣いのおかげで、オレの心は徐々に落ち着きを取り戻していく。 でも、オレのその落ち着きは数分後に崩れ去るんだ。 兄ちゃんの前にあるのは、美味しそうなハンバーグ。優さんの前にあるのは、これまた美味しそうなチキンステーキ。そして、オレの前にあるのがオムライスなんだけれど。 しっかりと両手を合わせた後、運ばれてきた料理をオレがひと口頬張った時。オレの目からは、大粒の涙が零れ落ちていた。 「……せい?どうしたの?」 「星君、大丈夫かい?」 ご飯を食べ始めた瞬間、いきなり泣き出したオレを心配してくれる兄ちゃんと優さんの声が聞こえる。 でも、オレは二人の言葉にこくこくと頷くのが精一杯だった。大丈夫だって言いたくても、そう言えない理由。 それは、オムライスの味なんだ。 ランさんがスペシャルだって言ったオムライスは、雪夜さんが作ってくれるオムライスの味にとてもよく似ていて。ふわふわしていてとろけるオムレツも、シーフードとマッシュルームが入ったバターベースのケチャップライスも。 恋しい人が、愛情たっぷりで作ってくれるその味を思い出させていくから。心が感動を覚えるより先に、溢れ出した涙はなかなか止まってはくれなかった。 だって。 すごく、すごく美味しいんだ。 こんなに苦しいのに、こんなに切ないのに。 とっても辛くて、とっても悲しいのに。 そんなオレの心を、幸せが包み込んでいく。 優しいオムライスの味に、オレが頬を緩めて笑顔を見せれば、オレの頭を撫でて甘く微笑んでくれる雪夜さんがいて。 たった一つの料理に痛いくらいの幸せを感じたオレは、兄ちゃんと優さんがいることも忘れ、止まらない涙を零しながらその幸せの味を噛み締めていた。

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