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第708話
雪夜さんがいる。
雪夜さんのお家のエントランスに、雪夜さんが立ってる。でもその人は雪夜さんじゃなくて、雪夜さんじゃないって分かっているのに、オレが呟いたのは大好きな人の名前だった。
「雪夜、さん……」
思った以上に声が響いてしまい、オレは慌てて両手で口元を押さえてしまう。何度も言うけれど、この人は雪夜さんじゃない違う人だっていうのは分かっているから……分かって、いるのに。
「子猫ちゃん、みっけた」
そう言ってオレを見て妖しく笑ったその人に、オレの声は届いてしまったらしい。上質なグレーのスーツに、爽やかなホワイトのシャツとシックなブラックカラーのネクタイ。ワンランク上の雪夜さんみたいなその人は、醸し出すオーラが雪夜さんとはまるで違っていた。
気怠さなんかまったくなくて、大人の色気たっぷりで。余裕がある感じがして、なんだかものすごーくエッチな人っぽい雪夜さん……じゃなくて、誰かさん。
きっと、たぶん、おそらく。
この人は、雪夜さんのお兄さんの飛鳥さんなんだって。オレの頭が動き始めたのと同時に、オレは会っちゃいけない人に会ってしまったんじゃないかと思った。
でも、オレの右手の人差し指にはステラのチャームがついた雪夜さんのお家の合鍵がぶら下がっていて。口元を隠していた手を今度は体の後ろに回し、オレはぎゅっと鍵を握る。
男のオレが、雪夜さんの恋人だなんてお兄さんには言えないし。でも雪夜さんの名前を呼んでしまったから、オレは雪夜さんと何の関わりもない赤の他人だとも言えない。
友達ですって誤魔化すのには、オレと雪夜さんは歳が離れているし。雪夜さんはオレの兄ちゃんの友達ですって事実を言ったとしても、雪夜さんがいないのに、オレがこんなところにいるのは変なんじゃないかと思ってしまう。
咄嗟に口からでまかせを言えるほど、オレの頭は器用じゃないから。色んなことを考えて、だけど、どうしたらいいのか分からなくて。
もうエントランスの中に入ってしまっているオレは、マンションの自動ドアがギリギリ反応しない位置で、自動ドアを背にして突っ立っていた。
そう広くはないエントランスにいるのは、オレと雪夜さんのお兄さんらしき人の二人だけで。オレはその場から動くことができず、もちろん喋ることもできなくて俯くのが精一杯。
どうして雪夜さんのお兄さんがここにいるんだろうとか、本当に雪夜さんのお兄さんで間違いないのかとか。さまざまな疑問と、どんどん混乱していく頭についていくこともできずに、オレはインターロッキングのコンクリートをただじっと見つめていたんだけど。
コツコツと、ゆっくり聴こえてくる革靴の音がしてオレの体は硬直する。それなのに、不快感を与えないその音は、とても上品な音色を奏でてオレの元までやってきて……ぴたりと、鳴りやんでしまった。
「お前の飼い主、やーちゃんだろ?」
クスッと笑われ囁かれた言葉と声に、オレの身体はピクンと反応してしまったんだ。
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