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第710話
「やーちゃんの子猫なら悪いようにはしねぇから、とりあえず乗れ。この車、乗ったことあんだろ?」
マンションの駐車場までお姫様抱っこで運ばれたオレは、そう問い掛けられて黙ったままコクリと頷く。
今はないはずの雪夜さんの車が目の前にあって、オレは有無を言わさず助手席に押し込まれた。そして、雪夜さんのお兄さんは当然のように運転席に乗り、ガチャっと音を立ててドアをロックする。
どうしてお兄さんが、雪夜さんの車に乗っているんだろうと思ったけれど。元々この車はお兄さんのだって、雪夜さんが言っていたことをオレは思い出して。
「この辺に用あって、時間空いたからやーちゃんのマンションまで来てみたんだけど……まさか、本当に子猫ちゃんに会えるとはな」
お兄さんが言うやーちゃんっていうのは、雪夜さんのことを言っているんだってオレはやっと気づけたけれど。久しぶりに乗った雪夜さんの車は、甘い煙草の匂いじゃなくなっていて。ほんのり香る爽やかで大人な香水の匂いが、オレの鼻を掠めていく。
お兄さんと会ってしまったこと、触れてほしくない場所に触れられたこと。現在進行形で、雪夜さんのお兄さんの考えていることがオレにはまったく分からないのに。
「子猫ちゃんさ、俺とデートしよっか」
「へ?」
動き出した車内で、なんとも間抜けな声を出したオレを見て、雪夜さんのお兄さんは柔らかく微笑んでくれた。
この表情は、雪夜さんと一緒だ。
でも、どこに連れ去られるのか分からないし、オレに拒否権はないし。オレが雪夜さんと付き合ってることがお兄さんに知れたら、別れろって言われちゃうかもしれないし。
なんて答えればいいのか分からないオレは、お兄さんの横顔をじっと見つめて黙り込んでしまう。
「さっきは、驚かせちまって悪かったな。うちの可愛いクソガキが、子猫ちゃんにお世話になってるみてぇだから。お兄様として、ご挨拶しようと思って」
「え、あ……えっと」
「白石雪夜のお兄様、飛鳥だ。やーちゃんから話聞いてねぇの?クソな兄貴が二人いるって、そのうち一人は俺と容姿だけそっくりなクズ野郎……あのクソガキなら、俺のことそう話してるはずだと思うけど、違った?」
……違わない。
どうしよう、違わない。
オレが雪夜さんから聞いている飛鳥さんの情報は、飛鳥さんが言った通りだから。何か答えなきゃって思っても、言葉が見つからないオレは困り果ててしまう。
そんなオレの表情を見てクスっと笑った飛鳥さんは、雪夜さんのように運転しながら煙草の箱に手を伸ばす。
「素直な子猫ちゃんだ、その顔するってことは間違ってねぇんだな。一応聞いとくけど、煙草吸っても大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
オレに確認を取ってから、飛鳥さんは咥えた煙草に黒のライターで火を点けていく。香ってくる煙は甘さのない煙草の匂いで、オレはやっぱりあの甘く香るブルーベリーの匂いが好きなんだって実感した。
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