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第767話
急に静かになってしまった空間。
オレの真正面にいるランさんは、ただ小さく笑みを洩らすだけで。雪夜さんとのいつものやり取りのように、テンションが高いオネェ口調で雪夜さんの問いを躱そうとはしなかった。
年齢も分からない、本名も知らない。
というより、オレは雪夜さんの質問を聞いて、ランって本名じゃなかったんだって……ちょっと考えれば分かりそうなことを、一人で思っていたんだ。
綺麗なお姉さん、でも本当は綺麗なお兄さん。
見た目が若く見えるだけで、もしかしたらランさんは綺麗なおじさんなのかもしれない。横島先生の先輩だし、横島先生は三十路を過ぎているから……ランさんは、それより上なんだと思うけれど。
ランさんの本名。
オレは今までまったく気にしていなかったことなのに、一度気になりだしたら気になってしまって。誰も言葉を発しない中、オレは隣にいる雪夜さんではなく、ランさんの姿を真っ直ぐに見つめた。
「……嵐太よ、本名は篠原 嵐太(しのはら あらた)」
小さく、小さく。
動いたランさんの唇は、真実を語る。
「マジで似合わねぇーのな、嵐太って顔じゃねぇーだろ……あ、だからランなのか」
「そういうこと。貴方はすぐに理解出来るでしょうけど、星ちゃんにはまだ何も話していないわ……雪夜ったら、本当に策士なんだから」
「……なんのことだか」
フッと笑った雪夜さんと、長い睫毛を伏せて儚い表情をするランさん。オレだけが何も分からず、二人の顔に視線を移して首を傾げてしまう。
「お店のこと、私のこと……雪夜だけにはある程度話してあるけれど、星ちゃんにも知ってもらうべきね。私にランって名前をくれた人は、このお店を遺して他界したわ」
呟いたランさんの声は、とても落ち着いていた。それは、過去を乗り越え生きてきた人のみが醸し出すことのできる、なんとも切なく可憐な声で。
「誰よりも、何よりも、私は彼を愛していた……彼は私が当時勤めていたホテルにある会員制のBARで、バーテンダーをしていたの。私にお酒の知識があるのは彼のおかげ、このお店が夜にもう一度開くのはソレが理由よ」
本当に、心の底から愛していた人。
最愛の人との永遠の別れは、ランさんにとってどれほど辛いものだったんだろう。
「どうして惹かれ合ったのかは、分からないわ。優しくて、不器用で、男気があるのに何処か打たれ弱い人だった。今考えると、少し雪夜に似ていたかも知れないわね」
「お前に惚れた男と一緒にすんな、俺は星を残して死んだりしねぇーよ。どんな理由があろうと……自ら命を絶つなんて真似、絶対にしない」
「えっ、じゃあもしかして……」
雪夜さんの言葉で、オレの中に出てきた仮説をランさんは頷く形で肯定してみせる。
「お前に嵐太は似合わないからって、私のことをランって呼ぶ不思議な人だったの。嵐は読もうと思えば、ランって読むことも出来るのよ。蘭の花言葉は美しい淑女、だからランは俺だけの女だろって……彼はいつも、私の隣で笑っていたわ」
そんな人が、どうして自殺を選んだのか。
……その答えは、亡くなった本人にしか分からないものなのかもしれない。
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