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第768話
「理由は分からないのよ……私に嫌気がさしたのかも知れないし、生きていくのに疲れてしまったのかもしれない。人一倍責任感の強い人だったから、男の私を幸せにはできないって思っていたのかもしれない」
ランさんという大切な人がいながら、何故愛した人をこの世に残して命を絶ったのか……死者の声を聞くことは、今を生きているオレ達にはできないことで。
「当時はこんなに便利な世の中じゃなかったから、連絡を取り合うのにも一苦労な時代だったのよ。一緒に暮らしていれば良かったのかもしれないけど、彼は頑なにソレを拒んだの」
「どう、して……」
「俺を選んで、ランが周りから批判されるのは俺が耐えられないからって。極秘恋愛にも程があるけれど、世の中のタブーはあの時代じゃ受け入れてもらえなかったから」
兄ちゃんと優さんの話をした時、ランさんは兄ちゃんの気持ちを尊重しているように思えたけれど。それは、ランさんの過去が関係していたからだったんだ。
「彼の親族は私の存在すら知らなくて、彼の死を私が知ったのは、彼が埋葬された後だった……何日も連絡が途絶えて、私が彼のアパートに押し掛けて。住人の方に尋ねたら、その人なら先日亡くなられたみたいですよって」
「でも……それだけなら自殺かどうかはっ」
大人しく聞いていられなくて。
口を挟んでしまったオレに、ランさんは首を横に振る。
「遺書も何も残さずに旅立った彼が、自殺か他殺かを調べるために警察が動いたのよ。そこで初めて知らされたわ、彼が自殺したってこと」
何も、言えなかった。
オレは溢れそうな涙を堪えると、俯いて唇を噛み締める。オレの肩に柔らかく触れる雪夜さんの手が、こんなにも愛おしいと思ったことはない。
「結局、事件性はなかったんだけれどね……どんな死に方だったのかは、怖くて聞けなかった。いつか二人で自分のお店を持ちたいわねって、彼とはずっと夢見てたわ。それは形になったけれど……彼はもう二度と、私の隣で笑ってはくれないの」
「……ラン、さん」
「美しい淑女だなんて、笑っちゃうわね。でも、彼が遺してくれた夢と名前は、私の宝物なの。だから私は彼がくれた名に恥じぬように、ランとして生きているつもりよ」
「だからって、オカマになってんのはどうかと思うぞ。やっぱどう見ても嵐太って顔じゃねぇーし、お前はランの方が似合うけどな」
「人に本名聞いておいて、それはないんじゃないかしら?星ちゃんの成長を肌で感じて、今なら話せるだろうって顔して何気なく訊いてくるんだから。隅に置けない男になったわね、雪夜」
「うっせぇー、オカマ。俺はただ、お前と星くんのことを思って訊いたまでだ。別に、深い意味なんてねぇーよ」
甘い煙草の香りと、雪夜さんの声。
触れられている手はいつだって優しくて、オレにそっと寄り添ってくれるけれど。
「ごめんなさいね、星ちゃん。貴方に私の夢を託したのは、こういう理由があるからなのよ。私は彼と未来を歩むことができなかったけど……貴方達二人なら、共に歩んでいける未来があると思うから」
今が、当たり前の日常ではないんだと。
託された想いの裏にある哀しみを越えて微笑んでいるランさんは、オレに愛することの大切さを教えてくれたような気がした。
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