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第769話

「……雪夜さんは、知ってたんですね」 ランさんのお店を出て、雪夜さんの車に乗って。二人だけの空間のなかで堪えていた涙を流すオレは、雪夜さんにそう問い掛けた。 「ああ……昔、俺が生きるの面倒になってランに愚痴った時。一度だけ、アイツが話してくれたことがあんだよ。そん時は本名教えてくんなくてな、そのうち機会があればって躱されたけど」 途切れた雪夜さんの声の代わりに、車内にはカチッカチッてウインカーの音が響く。 「星くんがあの店で働くなら、知っておくべきことだと思って。ただ、俺の口から言える話じゃねぇーからさ……お前がワインの話した時、ランの瞳が揺れたんだ。店の雰囲気まで表現しようとするお前と、そんなランの姿見て、今なら話せんじゃねぇーかって」 「だから、策士って言われてたんだ」 「本当にランが話すとは思ってなかったけどな、今のお前ならランにどんな過去があろうと受け入れらんじゃねぇーかって思っただけで……よく頑張ったな、辛かっただろ」 「本当に辛いのはランさんですもん、オレが泣いても何にもならない……でも、やっぱり辛いです」 ポロポロ零れ落ちる涙は、誰のために流れているものなんだろう。ランさんはきっと、同情はいらないんだ。けど、そのことを分かっていても、涙は止まらない。 「俺も初めてアイツの話聞いた時は辛いっつーか、やり切れねぇー感じだったけど。ランの言葉があったから、俺は今こうして星と一緒にいれんだと思う」 「……ランさんの言葉、ですか?」 「一生を添い遂げる覚悟があるかって、ランが俺にそう訊いたことがあんだよ。すげぇー重たくて、でもアイツにしか言えねぇー言葉だとも思った。正直、そん時は覚悟も何もなかったんだけどな」 荒波を乗り越えた分だけ、生き抜いた分だけ……人は、人に優しくなれるのかもしれない。雪夜さんがオレと一緒にいる未来を選んでくれたのは、その覚悟を持ってくれたのは、そんな優しさと厳しさを兼ね備えたランさんのひと言があったからなんだと思った。 「あの店はランにとって、命より大切なもんだから。アイツ、仕事以外のことしねぇーだろ……しねぇーってか、出来ねぇーヤツなんだけど。ランは今でも、たった一人の男を愛してあの店に立ってる」 どんなことがあっても、過去は変えられない。 けれど。 愛する人が遺してくれた自分の居場所を大切にしているランさんは、今頃きっと笑っているから。 「オレ、とっても素敵なお店を託してもらえるんですよね。ランさんの夢と愛情がたっぷり詰まったお店で、これから働いていけるってこと、オレは誇りに思います」 「さすが星くん。そう思えるお前だからこそ、ランはお前に夢を託したんだ……その気持ち、忘れねぇーでやって」 愛する人と、伴に生きていきたい。 ランさんの夢を託されたのは、本当はオレだけじゃないけれど。今はまだ、その時じゃないから。 いつか、遠い未来で。 ランさんの夢を、雪夜さんと二人で叶えられる日がくるといいなって、オレは心の底から願っていた。

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