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第780話

とろりと濃厚なチョコレートは、ガラスを包むステンレスのオシャレなカップに注がれている。そこからゆらゆらと湯気が揺らいで、埋まったはずの兄ちゃんとの距離に境界線が張られたような感じがした。 妖艶な王子様に、とても良く似合うティーカップ。兄ちゃんはソレをゆっくりと持ち上げて、形のいい唇で口付けていく。芳醇な紅茶の香りとチョコレートの甘い香りが混ざり合い、その香りはオレたち兄弟みたいだなって思ったりして。 中断してしまった話の先が気になっているオレは、兄ちゃんが再び話し出してくれるのを待っていた。 「……早く大人になりたいって、せいは思う時がある?」 音を立てずに置かれたカップ、そんな静かな空気の中で音を奏でたのは兄ちゃんの声だったから。 「あるよ。オレがどれだけ背伸びしても、兄ちゃんや雪夜さんには追いつけないから……だからちょっとでも近づきたいって、大人になりたいって思う」 尋ねられた問いに迷うことなく答えたオレは、自分でも驚く程に素直な思いを語っていて。 「じゃあ、逆に子供に戻りたいって感じることは?」 まっすぐオレの目を見て聞いてきた兄ちゃんの言葉に、今度は少し考えてからオレは口を開いた。 「んー、戻りたいって思うことはあんまりないかも。戻っちゃったら雪夜さんに会えなくなっちゃうし、嫌な思い出があったりしても、もう一度過去からやり直したいとかは思わないかな」 いじめられ、人形だって揶揄われた日々。 正直、惨めな思いを味わったオレの過去には戻りたくない。でも、それだけじゃなくて。 楽しいことも嬉しいことも、いっぱいいっぱいあったけれど。今を後悔しているわけじゃないし、過去があるから今があるって……オレは雪夜さんと出逢って、そう思えるようになったから。 「どんなことがあっても、オレは雪夜さんと出逢えた奇跡を後悔したくないんだ。会わなければ良かったなんて、そんなふうに思いたくない。だから、振り返ることはあっても、戻りたいとは思わない」 自分でも気付かぬうちに、その思いは明確で強い意思へと変わっていく。きっぱりと言い切ったオレは、話しながら自分の気持ちを整理していることに気がついた。 そしてそれが、兄ちゃんを苦しめているとも知らずに。 「俺が、せいくらいの時はね……俺も優もユキも、せいと似たようなこと思ってたんだ。早くこんな狭い空間から抜け出して、自由な世界で生きていきたいって」 オレから見たら大人びているように思えた高校時代の兄ちゃんが、今のオレと同じようなことを考えていたなんて。驚きと安心感が交差して、オレは小さく息を呑む。 「でも、実際にこうやって少し歳を重ねてみるとね……戻りたくても戻れない、そんな現実を知るんだよ。前を見るのが怖くなって、目を閉じても引き返せない。一度登り始めた大人の階段ってのは、下ることを許してはくれない」 誰もがシンデレラなんだって。 きっと、その階段を登り切った時。 ガラスの靴なんてこの世にないことを知って、自分が生きてる世界には魔法も何もないことを知るんだって。 見たくない現実を受け入れなければならない未来が待っているのに、それでも登り続けなきゃいけないのが大人の階段なんだって。 呟いた兄ちゃんは、そう言ってそっと瞳を閉じたんだ。

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