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第787話

顔を上げて、母さんの顔を見るのが怖い。 けれど、そんなオレの気持ちを和らげる母さんの声が聴こえてきて。 「……そう。その気持ち、大事になさい。人を好きになるってね、なろうと思って好きになるわけじゃないの。いつの間にかなっているものなのよ、それが運命の人なら尚更……星、貴方はもっと自分に自信を持ちなさいね」 「母さん……」 優しい声色と、暖かな言葉。 でも、少しだけ厳しくオレに届いた母さんの想いは、昔から変わることなくそっとオレの手を引いてくれる。 「勉強も遊びも恋も、思う存分楽しみなさい。あとは、常に言っているけれど早寝早起きすることね。夜更かし過ぎたら怒るわよ?」 「うん、分かってる」 「星はそこまで寝起きが悪くないからいいけれど、光の寝起きは最悪だから嫌になっちゃうわ」 「兄ちゃん朝弱いから、いつも母さん叫んでるもんね」 「あの子、あれで本当に高校の教師なんてやれるのかしら。我が子ながらに外面の良さには感心してるのよ、でもねぇ……まぁ、いいわ。ケ・セラ・セラで、人生なるようになるんだから」 どうやら兄ちゃんのことは自己完結させたらしい母さんは、話し終わって満足したのか椅子から立ち上がると鼻歌を歌いながらオレの部屋の扉を開ける。 「……あ、母さんっ」 「どうしたの?」 この時、オレはどうして母さんを呼び止めたのか自分でもよく分からなくて。 「ううん、なんでもない……おやすみ」 「おやすみ、星」 パタンと閉まったドアを見つめ、心に感じる不思議な気持ちはなんだろうって考えた。 母さんは、どこまでオレのことを知っているんだろう。隠すつもりも、嘘をつくつもりも本当はないけれど。そう出来ない事情がオレにはあって……でも、オレの素直な気持ちを否定することはなかった母さんに、本当は付き合ってる人がいるって……オレは、そう伝えたかったのかもしれない。 母さんが言った『彼』と、オレが思う人が同じだったら。母さんは一体いつから、そのことに気づいていたんだろう。 もし、母さんが言った『好き』と、オレが頷いてみせた思いが同じものだったら。それはそれで色々と、オレから説明しなきゃならないことがあるんじゃないかってオレは思ってしまった。 言い出していいのか、悪いのか。 自信を持つってひとくちに言っても、それはどの自分に持てばいいのか分からなくて。 「はぁ……って、兄ちゃん先生になるのっ!?」 大きく吐いた溜め息の後にとても遅れてやってきた驚きは、声となって部屋中に響き渡る。 兄ちゃんが教育実習に行っていたことは知っているし、就職活動も既に終わっていることは知っているけれど。教員採用試験の話や高校の先生になるなんて話は、オレは一切聞いてないから。 「……王子様が、先生?」 自動車学校がどうとか、他に考えなきゃいけないことは山ほどあるのに。うちの家族は謎だらけで、オレは一人で頭を抱えてしまう。 お風呂上がりに着た薄手のトレーナー、その袖を伸ばして冷えてきた身体を温めつつ、オレは髪を乾かしていないことに気がついて。 「ウソ……」 もう一つ致命的なことに気づいてしまったオレは、明日から母さんとどんな顔をして会えばいいのか分からなくなってしまったんだ。

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