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第788話

朝起きて、洗面台の鏡を覗いたオレは溜め息を吐く。襟元が開いたトレーナーじゃ隠れないキスマーク、雪夜さんに愛された印は、きっと母さんの目にも止まっていた。 半年ぶりに刻まれた赤い痕。 家だから、久しぶりだから……隠さなきゃいけないことをオレはすっかり忘れていたんだ。これが気の緩みってやつなのかもしれないって、そう思っても、過ぎた時間が戻ることはなくて。 「……どうしよう」 いくら母さんに自信を持てと言われても、さすがに昨日の今日で「オレの恋人は男です」なんて言えない。そもそも、母さんがどこまで気づいているのか分からないし、オレから訊くのにも勇気がいる。 堂々と親にキスマークを晒しておいて、今更恥を感じても遅いんだろうけれど。オレの心は、平気な顔ができるほど強くはないから。 願わくば、もう一生親の顔を見たくないとまで思ってしまったオレは、寒い冬の朝なのにも関わらず、蛇口から出る冷たい真水で顔を洗った。 こんなことで頭が冷えるのなら、オレはたぶん毎日氷水で顔を洗うと思う。結局、冷たい水に顔を付けても心に感じる憂鬱感は消えることがなく、オレは意を決して洗面所から出ていくしかなくて。 「……はよう」 平常心、平常心と。 何度も呪文を唱えながらリビングの扉を開けたオレは、朝の挨拶の発音すら上手くすることができないけれど。 「星、おはよう。ご飯食べちゃいなさい、早くしないと弘樹君迎えに来ちゃうわよ」 「あ、うん……いただきます」 いつもと何一つ変わらない朝の風景にオレは少しだけ安堵しつつ、朝ご飯が置かれたテーブルに腰掛け、喉を通らないご飯を無理矢理詰め込んでいく。 「母さん、行ってくる」 「貴方、待って。玄関まで送るわ」 夫婦の日常。 なんてことない平穏な朝。 着慣れたスーツに身を包んだ父さんの後を追いかけ、エプロン姿の母さんは玄関へと向かう。 これがきっと、父さんと母さんの幸せ。 オレと兄ちゃんがいて、当たり前のように家族として過ごす毎日が、オレたちの両親にはかけがえのない時間なんだと思った。 幼かったオレたちも、もうすぐ社会に出ていくことになるし。そうなったら、子育ても一段落つくんだろうなぁって……結婚して、孫が産まれて、そしたら今度はおじいちゃんとおばあちゃんになって。 母さんたちは、そんな一般的な幸せを望んでいるだろうって……そこまで考えて、オレは気がついた。 オレと雪夜さんは、家族にはなれないってことに。二人寄り添って生きていくことができたとしても、家族として家庭を築くことはできない。 結婚も、子供も。 ありふれた幸せは、手に入れることができないんだって。分かっていたつもりだったのに、それを承知の上で雪夜さんと一緒にいたいって思っていたはずなのに。 両親のことも視野に入れ考えてみると、揺るがないと思っていたはずの気持ちがぐらりと音を立て崩れていくのが分かって。 「……雪夜、さん」 誰もいないリビングで呟いた大好きな人の名前は、オレと同じ性別の人を示す名だから。こんなに好きなのに、愛しているのに、その気持ちを否定するような家の空気はとてつもなく重く感じた。

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