803 / 952
第803話
その後、オレは雪夜さんに襲われる……なんてことはなく、ソファーに腰掛けゆったりとコーヒーを飲んでいる雪夜さんの隣で、オレは宿題をしている。
「えーっと……トロリーバス不明ヒ、だから」
「ちょっと待て、星くん。なんだそのおかしな呪文、なんかの語呂合わせか?」
テーブルの上に復習プリントと筆記用具を広げ、オレが頭を悩ませていると、雪夜さんはクスッと笑ってそう尋ねてきて。
「必須アミノ酸の覚え方なんですよ。トリプトファン、ロイシン、リジン、バリン、スレオニン、フェニルアラニン、メチオニン、イソロイシン、ヒスチジンの九つです」
思ったよりちゃんと覚えていた自分にびっくりしつつ、笑っている雪夜さんに答えたオレは、口に出した九つをそのままプリントに記入していく。
「不明ヒってなんだ、ヒって。俺ん時は一人住めばエロいだったけど、語呂も色々あんだな」
「なんですか、それ……そっちの方が意味不明じゃないですか?頭文字がエのやつなんかないですし」
「フェニルアラニンのちっこいエがエロくなんだろ、俺もよく分かんねぇーわ」
家出してきたとは思えないくらい、オレと雪夜さんを包む空気は和やかで。他人に聞かれたらどうでもいい内容を二人で話し、オレの心も落ち着いてきた時だった。
テーブルの上に置いてあったオレのスマホが震え、オレはビクッと身体を強ばらせる。それでも恐る恐る手を伸ばし、オレは表示されたLINEの通知を見た。
「……母さん」
送られてきたのはOKのスタンプと、学校には行きなさいって言葉だけで。なんだか拍子抜けしたオレは、了解のスタンプだけを送り返す。すると、オレの頭の上にはポンッと雪夜さんの手がおかれて。
「大丈夫、だったろ?」
煙草に火を点け呟いた雪夜さんは、くしゃくしゃってオレの髪を撫でていく。
「うん……でも、きっと母さんは今日だけだと思ってるから。オレは、もう帰るつもりなんてっ……」
今日は帰らない、と。
母さんにそう送っていたオレは、明日も明後日も、ずっとずっと帰ることはことないって送ることができなかった。だから、今日は大丈夫でも明日はどうか分からない。
そんな不安が口から零れていった時、雪夜さんはオレの言葉を首を振って否定した。
「星、どれだけ帰りたくない家にも帰らなきゃなんねぇー時はある。二度と帰らないと思っても、あんなヤツらには会いたくねぇーと思っても。それが、家族なんだ」
「雪夜、さん」
「俺も、実家には帰りたくねぇー時ばっかだった。理由は話さなくても分かんだろ……俺は、俺の夢を奪った家族がすげぇー嫌いだったから。嫌いっつーか、憎んでた」
「でも、飛鳥さんだって、妹さんだって、本当は雪夜さんのことが大好きで……だから、雪夜さんはっ」
「そう……そのことを気づかせてくれたのは、お前なんだよ、星」
ともだちにシェアしよう!

