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第804話

オレは、何もしていない。 ただ雪夜さんの傍にいて、泣いたり甘えたりすることしかできないのに。とても大事なことを気づかせてくれたって、雪夜さんはそう言って笑った。 「仲のいい両親と、お前には優しい兄貴……星くんは、そんな目の前にある幸せを奪うのが怖くなったんだろ」 甘く揺らぐ煙草の香り、その紫煙を見つめて。 分からないと戸惑うオレの心は、雪夜さんに少しずつ溶かされていく。 「うん……だって、オレが雪夜さんを選んだら母さんたちの幸せは手にはらないから。兄ちゃんだって、きっとオレがいるから無理して笑ってくれるんだもん。だから最初から、オレなんかいなければみんな幸せに……ッ!?」 家を出たのに、確かな理由なんてない。 幸せがなんなのかも、家族がなんなのかも。 そんなこと、オレには分からない。 戻りたくない、帰りたくない、雪夜さんの傍にいたい。ただ、それだけなんだ……それだけのことなのに、消えてしまいたくなるのはどうしてだろう。 あの家に、オレがいなければ。 そう思って口走った言葉は、優しく笑ってくれていた雪夜さんの逆鱗に触れてしまった。 室内に漂っていた紫煙が消え、灰皿に力強く押さえつけられた煙草はぐにゃりとその形を変える。淡い色の瞳からは光がなくなり、荒く掴まれたオレの手からはスマホが落ちていく。 それは、ほんの一瞬の出来事だったのに。 ふかふかの黒いラグに落ちたスマホも、思い切り手を引かれ噛みつくようなキスをされて息ができなくなっていくのも。その全てが、スローモーションのように思えた。 「んッ、ぁ…い、やっ」 苦しい、苦しい、苦しい。 こんなキス、したくないのに。 優しくて蕩けるような、いつもの口付けが恋しい。でも、オレが雪夜さんを怒らせてしまったことが分かるキスは、オレがどれだけ抵抗しようと終わることはない。 言っていいことと、悪いことがある。 その悪いことを言ってしまったんだと思っても、後の祭りだった。暖かい家庭の幸せを奪って、大好きな人を怒らせて……オレは、何がしたいんだろう。 お人形だといじめられて、家族や親友にたくさん迷惑をかけた幼少期。今でも周りの人に助けられてばかりいるオレは、産まれてこなければよかったんだと。 自分の存在を否定したら、楽になれると思ったのに。その思考の先にあったものは、どうにもできない苦しさだけで。激しい口付けから逃れらずに、オレの頬には冷たい涙が伝う。 押さえつけられた両手が、雪夜さんの背中に回ることはない。息を吸おうと唇を開いても、薄い酸素が入ってきてはまたすぐになくなってしまう。 どのくらいのあいだ、オレはそんな時間を過ごしていたんだろう。終わらないと思っていたキスの雨が止み、雪夜さんが離れていくのに気づいたオレは、閉じていた瞼を開けるけれど。 「……星、お前には生きなきゃなんねぇー理由がある。これ以上酷くされたくねぇーなら、黙って俺の話聞け」

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