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第809話
『……母さん、本当に出たぞ』
俺がスマホを耳に当てた途端に聴こえてきたのは、戸惑う男の声で呟かれた謎の言葉だった。
俺は、誰かの母さんになった覚えがない。
掛かってきた番号は確かに星の母親だとは思うが、スマホ越しの声はどう考えても違う。となれば、この声の主は星くんの親父……って、マジか。
そこまで考え、想定内だったはずの電話は、一瞬にして俺の予想を超えていく。
『幸咲(さきえ)、何を一人で笑っているんだ。もう電話は繋がって……は?挨拶しろって馬鹿を言うな。名乗るなら向こうからが礼儀だろう、何処の馬の骨か分からんやつに俺から名乗る筋合いはない』
……あーっと、丸聞こえなんですケド。
そう言えたなら楽なのだが、言えるワケがない相手。どうやら星の父親で間違いないらしい男は、俺ではなく星の母親と話しているようで。
受話器のすぐ近くでクスクス笑う女の声がし、それが幸咲と呼ばれた星の母親の名だということを俺は察した。そして、このおかしな状況を作り上げたのは星の母親だということも。
家出した息子の心配をして、母親が連絡してきたのかと最初の最初は思っていたが。そうではないことに気がついた俺は、深呼吸をした後に口を開きかけるけれど。
「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありま……」
『息子は、その……キミにはやらん』
ただ、ひと言。
告げられた後に響いたのは、機械的な電子音。
一方的に切られたのだと、父親は俺と星の付き合いに納得してはいないのだと。そう判断するには充分過ぎる材料が揃った瞬間だった。
「やらんって言われてもなぁ……なんつーか、もうもらってるみてぇーなもんだと思うんだけど」
誰にも聴こえない独り言を呟き、一気に脱力した俺は気持ち良さそうな寝息を立てて眠る星くんを眺め煙草を咥える。
普通なら、落ち込むところなんだろうが。
星は家族よりも俺を選んでここにいるワケだし、それに何より、星くんの親父の態度が何処か気恥しそうに思えて。
納得は出来ていないものの、星の親父は認めざるを得ない心境なんだろうと俺は勝手に解釈した。男らしく威厳のある父親像というよりは、心優しい父親なのではないかと。電話越しに聞こえた会話を頭の中で再生して、夫婦仲も頗るいい両親なのだろうと思った。
まぁ、せめて名乗らせてほしかったところではあるんだけれど。終始笑っていた様子の母親には、俺のことをほぼ話しているようなもんだから。
ここで焦る必要はないと自分に言い聞かせ、左手に握ったままのスマホで俺から折り返し連絡をするのは控えることにした。夜も遅いし、挨拶するのは今でなくてもいい。
さまざまな問題は残っているままだけれど、星の両親と繋がりが持てただけでも大きな一歩を踏み出せたような気がする。
テーブルの上に置かれた揃いの腕時計、その秒針は、二つ並んで同じ速度で時を告げていた。
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