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第883話

「日中は寒くなくても朝晩は冷えんだから、上着持ってくように言ってやったのに。お前は本当に、人の言うこと聞かねぇヤツだな」 「アニキだって、母ちゃんの言うこと聞かねぇくせに。人に説教する前に、アニキはその頭の悪さをどうにかした方がいいと思う」 「クソが、とりあえずお前はコレ着て帰れ」 コート内を見つめていた時とは違う、まだ幼い表情を見せ、迎えに来た兄貴と話しているおチビさん。その肩に自分が着ていたコートを掛け、弟の後頭部を軽く叩いた長谷部の兄貴は、近寄ってきた俺と目が合うとバツの悪い顔をするけれど。 「いってぇなっ!すぐ殴ってくんじゃねぇ、アニキがこんなんだから、マコっちゃんにもバカにされんだよっ!」 「マコは関係ねぇだろ。毎度のように、殴られるようなことしてるお前らが悪いんだろうが」 弾む会話に、長谷部兄弟の様子に何処か懐かしさを感じつつ、俺はおチビさんの兄貴に声を掛けていく。 「こんばんは、弟さんの指導にあっているコーチの白石です。今日はお忙しい中、お迎えに来ていただきありがとうございます」 「いえ、いつも弟が世話になってるみたいで……コレ、ありがとうございました」 弟から奪い取った俺のウィンドブレイカーを差し出し、長谷部のアニキはそう言って俺に向かい頭を下げた。しっかりと兄としての対応をする姿に感心しつつ、俺は差し出された服を受け取る。 「まだ寒い日が続きますので、僕からも弟さんには事前に上着の着用を促しておく必要がありました。僕の力不足で、大変申し訳ないです。こちらでも出来る限りの指導はしていきたいと思いますので、お気づきの点がありましたらご指摘いただけると幸いです」 「いや、そんなことないです。コイツが悪いだけなんで、謝るのはうちの方です。ほら、お前もちゃんとコーチに謝れ」 「えっと、ごめんなさい。白石コーチ、また来週もよろしくお願いしますっ!」 小さな体を包み込むサイズの大きいコートは、長谷部がぺこりとお辞儀したことによってふわりと揺れていく。その隣で佇む兄貴は弟に気づかれぬよう少しだけ身を縮めるけれど、表情は平然を繕っていたから。 「俺に謝るより、兄さんに礼言ってやれ。お前の夢を応援してんのは、俺だけじゃないはずだ。じゃあな、気をつけて帰れよ」 今はまだ、些細なこと過ぎて気づくことが出来ない優しさ。身近でさり気ない愛情を受けていることに、このおチビさんが自分自身で気づく日がくることを願う。 さようならと挨拶をして、兄の横で悪態をつく弟。二つ並んだ背中を見送り、コート内に戻った俺は小さく微笑んで。 弟の頭を小突くその手に、隠された思いが言葉になることはなくても。忘れることのない一瞬の痛みが、その触れ合いが、いつしか言葉よりも重く響くようになるから。 幼い日の嫌な記憶も、あの頃は分からなかった兄貴たちの思いも一緒に。俺は今日も伝えられない沢山の感謝を抱え、夢が詰まったボールを子供たちと共に追いかけていた。

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