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第884話
「雪君、お疲れさま。少しお話があるのですが、引き止めても大丈夫ですか?」
仕事も終わり、帰り支度をしていた俺に声を掛けてきたのは竜崎さんだ。事務作業に追われている手を止め、わざわざ俺を引き止める竜崎さんは、俺の返答を待っていて。
「お疲れさまです、竜崎コーチ。時間はあるんで、大丈夫ですよ……っつーか、時間ないの竜崎さんの方ッスよね?」
「まぁ、ハイ……海外研修で不在だった分の仕事が山積みでして、雪君にもいくつか仕事を押し付けましたが、それでも終わらず残業の嵐です」
「押しつけた自覚はあったんですね、初耳ッス」
「でも、今引き止めているのは別件ですよ」
竜崎さんは、手に何枚かの書類を持って俺の元までやってくると疲労の色を漂わせながら書類についての説明をしていく。
「入社までに揃えてほしい書類の確認なのですが、住所の訂正をお願いしたいんです。雪君は、この春から居住地が変わりますよね?」
「ああ、はい。その予定で動いてますが」
「今の住所で申請してしまうと、入社後すぐに同じ書類を書き直すことになってしまうので……出来れば、入社前にと思いまして」
そう言われ差し出された書類に目を通し、俺は竜崎さんの心遣いに感謝の旨を伝えた。卒業後、引越しを考えていると竜崎さんには話を通しておいて良かったと思っていた俺とは違い、竜崎さんは何故か少しだけ頬を染め俯いてしまって。
「雪君、その……お幸せに」
「え、あ……ハイ?」
何を、言われているのか。
一瞬、思考が停止した俺はそんなことを思いつつも、とりあえず返事をしたけれど。
竜崎さんの様子が明らかにおかしいことと、言われた言葉の意味を察して。周りには俺と竜崎さんしかいないこの状況を把握した俺は、竜崎さんに問い掛ける。
「竜崎さん、もしかして……」
「いや、あのっ、飛鳥から色々と伺いまして。雪君のプライベートに踏み込むつもりはないのですが、ひと言伝えておきたくてですね……やはり雪君は飛鳥と違うと言いますか、しっかりしているんだなと」
クソ兄貴。
そう出てきそうになった言葉をなんとか飲み込み、俺は竜崎さんに掛ける言葉を探していく。どうやら、俺が星くんと同棲することを、あのクソ兄貴は竜崎さんに話してしまったようで。
「竜崎さんの気持ちは、素直に受け取ります。なので、俺からも言わせてください。竜崎さん……んな顔してたら、あのクズ兄貴に喰われて当然っスよ」
「ゆ、雪君っ!?」
「んじゃ、俺は仕事終わったんで。お先に失礼します、竜崎コーチ」
してやったり。
竜崎さんは何も悪くないのだが、こうでもしないと俺の気がおかしくなりそうで。
お互いに口数は少なくても、その少ない会話で全てを理解出来た俺と竜崎さんは、何も言わずとも互いのプライベートに今後一切口出ししないと心に決めたのだった。
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