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第912話

結局、何もない部屋で1日を過ごして。 名残惜しく俺の部屋を去る星くんを、車で家に送っていって。 それから、数日が経ったある日。 この部屋に入ることが許されるのも、これが最後となった今日。 「……すげぇー、なんもねぇーな」 室内を見渡して思ったことは、そんな当たり前すぎるものだった。 荷物の移動も終わり、ライフラインの解約と新居での使用開始の手続きを済ませて。業者の立ち会いなく家を出て鍵を閉めてしまえば、もうこの先俺がこの家に足を踏み入れることはない。 独りになりたくて、選んだこの家だったのに。 大学二年の春、星と出逢ったことをキッカケに当初の目的は失われて。部屋に残る思い出は、星と二人で過ごした日々に彩られていた。 「さーてと、サヨナラしますか」 荷物らしい荷物などなく、俺が抱えているステラにひと声掛けて。戸締まり等の最終チェックをしながら玄関まで向かった俺は、最後にもう一度振り返って室内を見つめる。 ……この部屋に、星がいたんだと。 扉を開ければ、おかえりなさいと駆け寄ってくる仔猫の姿。ソファーの上で膝を抱えて涙するアイツや、俺を待つ間に眠りに就いていた時の姿。 朝目覚めると、俺の服を着てキッチンに立っていた時のこと。恥ずかしいと頬を染めつつも、一緒に入りたいと強請られ二人で風呂に入っていたこと。 狭い洗面台を上手く使って並んで歯磨きしたり、ベッドで色々とヤって二人で眠りに就いたり。独りベランダで煙草を吸っていた時のことや、唯一興味があるものをクローゼットに閉じ込めていたこと。 さまざまな思いが込み上げてくる中で、俺の気持ちを汲んでくれたのは星くん代わりのステラだった。 大きくて真っ黒な猫のぬいぐるみに、感情なんてものはないことくらい分かっているけれど。それでも、俺の腕の中でふわふわとその存在を示す塊は、星と同じ色の瞳で俺を見つめてくれるから。 「一緒にいてくれてありがとな、ステラ」 オレがこの部屋での最後に立ち会えない代わりに、雪夜さんはステラと一緒に家を出てくださいねって。 星くんに言われた約束を守り、最後の最後まで残しておいた荷物と呼べない存在に礼を言った俺は、ステラの鼻先に軽くキスを落とした。 この部屋に星がいない時間も、俺を支えてくれたのはステラだったなと。いつの間にか居るのが当たり前になっていたぬいぐるみが、こんなにも俺の心を落ち着かせていたことに俺は今更気がついて。 「お前は、新居でもちゃんと居座れよ」 星くんにするようにステラの頭をポンポンと撫でてやり、靴を履き扉を開けた俺は外の冷気に身を縮めた。 ありがとうと、サヨナラ。 その二つの言葉を、心の中で呟いて。 そっと閉じた扉に鍵を掛け、俺は新たな未来に向かっての一歩をゆっくりと踏みしめた。

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