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第2話

 『みーちゃん、寂しいけど先にバイト行くね。今日一緒にバイト上がろう。』  目を覚ますと時計の時間は既に夕方の5時過ぎを指していて、そろそろ起きてバイトの用意しなきゃいけない時間のため体を起こした。携帯に入っていた結城からのメッセージを読み、それからシフト表を確認するとどうやら彼は今日、午後3時から入っていたらしい。メールの送信時間が午後1時だということは一度家に戻ってから用意したんだろう。  それならそうと俺の誘いを断ってくれればいいのに、とまで考えたがあの結城のことだ。たとえ朝10時からバイトが入っていたとしてもきっと会いに来てくれただろう。  本日2度目のシャワーを浴び、それから適当に冷蔵庫の中に入ってあったご飯を温めなおしてから口に突っ込んで時間ギリギリに家を出た。  先ほどシフト表を見た時に気づいたが、どうやらよりによって今日、藤谷はウチでヘルプに来ることになっているらしい。マジかよ、しかも結城も入ってるし。二人はバイト先でも仲のいい友人だが、出来ればその間に俺がいることを知られたくない。まぁ知られたところで藤谷は彼女いるし、俺のことは気まぐれで抱いてるんだろうから支障はないが結城は怒るんだろうな。  事前に結城には他の男とも連絡とって寝ていることは伝えているが、それでも彼は引いたりせず、『じゃあ他の男よりもたくさん俺と一緒にいてくれたら許すね』と承知してくれた。我ながら最低だ。  そんなことを考えながら電車に揺られること30分。駅から出て直ぐの場所にある店に足を踏み入れると俺の顔を見た結城が嬉しそうに「みーちゃん!」と出迎えてくれた。おい、お前いま勤務中だろ。  「おはようございます。」  みーちゃんが冷たい、と気を落とす彼の横を通り、ほかの従業員にも同じように挨拶をすると洗い場からヒョコッと顔を出した藤谷と目が合ってしまった。  「お?美津の声がすると思えばやっぱり来たか。おはよう。」  「…おはよう。」  まだ俺は怒ってるからな、と思いながらフンッと彼の横を通り、それからスタッフルームに入っていく。一緒にご飯食べて、ヤるだけヤって、最終的には彼女のご機嫌取りのために帰らされて。まあ別に俺は寂しいとか悔しいとか全然っ!これっぽちも思ってないけど!!  藤谷といると、いつも俺は傷ついてばかりだ。  本当はご飯一緒に食べれて嬉しかったし、ウチに寄っていく?と言われた時はどういう意味なのかは分かっていながらも嬉しかった。あの時間だけでも付き合っているんじゃないかと自分で錯覚してしまうぐらいに。前の恋人なんかもう忘れたんじゃないかっていうぐらいに。…流石にそれは言いすぎかも知れないけど。  *  時刻は午後11時。うちの店はいわば普通の居酒屋だが平日のこの時間となると終電も迫ってることだし、そろそろ客足も絶えてくる時間だ。7時、8時のあの忙しさとは打って変わって、人が少なくなってきた店内ではお客さんとの声に交じって従業員の楽しそうな会話も混ざって聞こえる。従業員も含めて明るい雰囲気の店にしたいという店長のやり方ということもあってか、忙しくない時間なら私語はむしろ店長も自ら混ざってくるほどだ。  今も店長と結城、藤谷を中心にバカみたいな話で盛り上がっているのが聞こえる。  俺はそんな空気が苦手だから、一人で黙々と発注の仕事に専念していた。あれこれとチェックをしていたその時、カランカランと店のドアが開かれ、俺は慌てて「いらっしゃいませ」とお客さんを出迎えたが、それがいけなかったらしい。  「あれ。」  「ウゲッ…」  思わず目にしたお客さんに向かって潰れたような酷い声が出てきてしまった。  「美津?」  嬉しそうにニッコリと俺の名前を呼ぶ男に思わず頬が引きつる。何故ならこの目の前にいる男こそが俺を振った元恋人、七瀬(ななせ)さんだったからだ。  *  「あの、美津さん。あちらのお客さんが接客すべて美津さんにお任せしたいって言っているんですが…。」  どうして元恋人の七瀬さんがウチの店に一人で来たのかは知らないしそもそも知りたくもないが、極力関わりたくなかった俺は別の人に接客をするようにお願いした。だがそれも無駄だったらしい。今日一番のため息をつきながら「わかった」とだけ返事し、それから俺は重たい足取りで男の元へと歩み寄った。考え事をしていたのか、少し呆然としていた七瀬さんは俺を見るなり嬉しそうな顔を向けてくる。  「…ご注文はなんですか。」  「やだなぁ、酷い顔。まさか普段そんな顔で接客とかしてないでしょ?」  「そうだよ、アンタだからな。」  「あーあ。本音が出てる。」  ふふ、と笑う七瀬さんに俺は頭を抱えながらもう一度注文は何かと聞いた。それから七瀬さんはシャンディーガフの他にもおつまみ何点かを頼み、俺はそれらのオーダーを機械に通す。早く離れようと立ち上がった際、七瀬さんはまるで俺の心を見透かしたかのようにこう言葉を背後に投げつけてきたのだ。  「彼女とは別れたよ。」  何故それを今俺に言ったのかは分からないが、振り返った七瀬さんの顔は真剣そのもので、俺は何も返せずそのまま発注の仕事に戻ることにした。  流石にメニューも全部美津が運んでとは言われなかったが、それでも仕事をしている際、ずっと七瀬さんの目線がチクチクと向けられているのが分かる。それには他の同僚も気づいたようで、「あの人ずっと美津さん見てますよ。知り合いですか?」と聞かれるほどだ。俺は適当に「昔の知り合い」とだけ答えたが、腹立つことにやはり綺麗な顔をしているためかすぐに女性店員の話題の的になった。  七瀬さんとは一番長く続いた恋人で、それこそ同棲までするほどの関係だった。出会いはゲイバーというありきたりな場所だが、それでも七瀬さんといる時間は本当に楽しかった。  自分よりも4つ年上だけど、お互い性格や好きなものも似ていたから一緒に過ごしてて息苦しいと感じることがなかった。…けど、七瀬さんの仕事にいつも俺は不安を抱いていた。  今は違うが、当時の彼はホストだったから。  女性を相手に接客する。それも普通の接客業ではなく、恋人のように甘い言葉をかけたり場合によってはその先の展開もあるものだから、いつも彼の携帯は見るどころか触ろうとすら思わない。それでもなんとか1年、2年と無事に過ごせたものの、3年目の記念日の当日。彼から別れてほしいと言われた。  好きな女が出来たって、その女はどこで出会った女なのか、客から始まった関係なのかと聞きたいことは山ほどあったし文句だってたくさんいってやりたかったけど、あの時に口から出てきたのは「分かった。」という一言だけだった。俺がそんな質問を聞いたところで七瀬さんの心は変えられないようだし、何より女に勝てるはずがない。  ほら、結局はみんなそうやって他の人を選んでは俺を置いていくんだ。  「……美津?」  呼ばれた名前に顔を上げると自分と同じドリンク場でビールをジョッキに注いでいた藤谷は俺の名前を呼ぶ。  「ビールすげー出てんだけどいいのか?」  「うわっ、やべ…!」  よく見れば俺の注いでいたジョッキにはビールが溢れていて、もったいないことをしてしまったと反省しながら量を調節する。いつもはヘラヘラしている藤谷がやけに俺の様子を心配しているようで、それにまた胸が痛んだ。  「…昨日は悪かったな。まさかあのタイミングで電話をかけられるとは思ってもいなかった。」  「え?あ…ああ、別にいいよ。そんなの。」  まさか今そのことを謝られるとは思ってもいなかった俺は適当にその言葉を返す。藤谷はそれでも何度も申し訳なさそうに謝ったが、正直それどころじゃない俺はというと彼の謝罪の言葉が何一つ頭の中へ入ってこなかった。出来上がった生ビールを客の元まで運び、新たなオーダーを機械で入力しながらそれを厨房まで通すと、またもや「美津」と自分の名前を呼ぶあの人の声が後ろから聞こえる。  「今日、仕事上がるの何時?ウチにおいで。」  「は……?結構です、そういうの。」  何を考えてんだアンタは。あんな振り方しておいてまるでまだ付き合ってるかのような態度はやめろよと眉を寄せるも、こんな俺の抵抗は興味ないのかそれとも想定内だったのか七瀬さんはにこやかな顔を崩さない。  「じゃあ、この店の裏にあるバーで待ってる。」  「絶対行きませんよ。」  「賭けようか。もし美津が来なかったら俺も二度とこのお店には来ないし、美津のことも二度と思い出したりもしない。」  「…どこに根拠が…」  「美津は頭悪くないだろう。こういう時に俺が嘘をついたっていいことはないぐらい知っているね。」  じゃあ、待ってる。  *  数時間前に言われたその言葉を胸に、午前2時。ようやく終えた仕事にお疲れ様でしたと他の従業員に声をかける。後半の仕事をどうやって終わらせたか記憶が少々曖昧だがなんとかなるだろう。一緒に帰れるのを楽しみにしていた結城の誘いを断り、つくづく自分もバカだなと思いながら俺は店の裏へと足を運んだ。  おしゃれで大人の雰囲気のあるバーに入り、出入口からよく見えるカウンターの席にその姿はあった。  「思ってたよりも早く上がったんだね。」  「…本当に来るのを知っていたみたいな口調ですね。」  席に着き、バーテンダーにドリンクを聞かれて適当にこの人と同じのをと頼む。その様子を見ていた七瀬さんは少し驚いた顔を浮かべた。  「マルガリータだよ。そこそこアルコール度高いけど、飲めるんだっけ?」  実は酒がそこまで強くない俺は思わず少し固まったが、ここで変な意地が出てしまったため彼の言葉に耳を傾けない。バーテンダーが目の前に差し出したマルガリータを暫く見つめ、ここで飲まなきゃというプライドだけを頼りにそっと口に運んでみた。居酒屋で作ってるカクテルなら作り方はよくわかるが、実のところこのマルガリータ、名前は聞いたことあるだけでこれといったレシピを知らない。  しかし飲んだ瞬間、口の中に広がった独特の味にすぐこれがテキーラをベースにしている酒だということに気付いた。七瀬さんの言うとおりだ、そこそこ高いだなんて言ってるけど普段の俺からすれば挑戦しようとも思わない酒だ。  「…無理しなくてもいいよ、お酒の強さは遺伝なんだし。それ飲んであげるから他のを頼みなよ。」  確かにこれを飲み干すのはかなり難しい。いっそのことまだ飲みやすいジントニックを頼もうかな。悔しいが、ここは彼の好意に甘えようと俺はバーテンダーにジントニックを頼むことにした。  「それで、美津には何してもらおうかな。」  「…はい?」  出来上がったジントニックを一口。その感想を言う前に七瀬さんは突拍子もないことを言い始める。  「美津は絶対ここにくるっていう賭けに勝ったもの。俺には何かご褒美がないとおかしくない?」  「おかしいです。」  「ふふ。そうやって強がるんだから。」  強がってねえよ、と彼の言葉に少しイラッときたがここは自分の言葉を飲み込んだ。  「美津の手料理。それでいいよ、食べさせて。」  「…それってどっちかの家に行かなきゃ実現しませんよね。絶対行きませんし、家にも入れませんよ。」  「別に今じゃなくたっていいよ。いつかってことで。だからこれからも俺と会ってね。」  「嫌です。今日限りにしてください。」  誰がアンタと関わりを再び持つか。頭おかしいんじゃないの、この人。そもそも普通は元恋人と会っただけで気まずくて仕方がないものなのに、それを逆に楽しんでるなんてやっぱりこの人は俺のことをバカにしている。  そう思った俺はまたジントニックを口に運んだのだ。  *  や、ばい…ふわふわしてる。  あれから1時間。バーを出て、外の風に当たりながら七瀬さんと並んで歩く。俺がトイレに向かった際には既に会計を済ませてくれたようで少しビックリしたが、思えばそれは付き合う前からよくされていることだ。久々にされてちょっと嬉しかっただけなんだよ、と自分に言い聞かせた。  「……美津、やっぱり酔っぱらってるよね。」  「…少しだけだから平気です。適当にタクシー拾って帰ります。」  「いっそのことウチに来たら?まあ、美津あれだけ嫌がってたし、来ないだろうね。」  絶対に確信犯。そう理解したのと同時に俺は昔のように笑う七瀬さんを見て黒い考えが頭の中で芽生え、やがてそれはどんどん大きなものへと成長していった。  「いいですよ、七瀬さんがそこまで言うなら行っても。」  「え?」  驚いた彼の声が心地いい。思えばいつだってそうだ。付き合った時からいつも俺は戸惑ってばかりで、彼はさっきのような表も裏も読めないような態度で接してくる。だから俺はいつもその度に驚かされたり悩んだりして、本当に七瀬さんと釣り合っているのか怖くて仕方がなかった。今度は俺が七瀬さんを驚かせてやりたい、そう思ったのがいけないらしい。  そのまま路上でタクシーを拾い、店から少し離れた高級住宅街にある見慣れた高層マンションに着いた頃には午前4時前を過ぎていた。思えば昨日はこの時間帯に藤谷とセックスして休むことなく途中で帰ったな。何でよりによって今あの藤谷のことを思い出すんだろう俺は。相変わらずフラフラな足取りでマンションに入り、エレベーターで10階に移動しながら危なっかしい、と自分を支えてくれてる七瀬さんの腕に力が入ったのが分かった。久しぶりに触れた彼の体温は少しあったかい。  思えば何度もこの部屋を出入りしたな。  なんだか妙に懐かしい気持ちになってしまったが、ドアを開けるとそこは俺がいた時のまま時間が止まってしまったかのような部屋が広がっていた。家具の配置やらが一切変わっていないのだ。まだ別れてから1年も経ってないが、それでもあの時のまま全て残っていることが嬉しかった。  「少しソファーで休んでて。今水持ってくるから。」  そういってキッチンに向かい、冷蔵庫から冷やしてあったミネラルウォーターを取り出すとそのキャップを外してから俺に手渡す。一口飲んだところで思ったのはこの酔いを醒ましたくないということ。記憶が飛んでるほど飲んでいないし、そこまで酔っぱらってもいない。ほろ酔いの心地よさにもう一口だけ飲んだ俺はすぐにキャップを締めてテーブルに置くとそれから七瀬さんの腕をつかんだ。  「部屋、最後に出た時のままですね。一体この部屋に何人の女の子を連れ込んできたんですか?みんな可愛かったんでしょうね。」  「…美津。」  「答えたくないのは分かってますよ。それに、いつも七瀬さんは俺の質問に答えてくれませんでしたから。」  何を聞いたって彼は俺の質問に答えない。何を考えているのかわからない。だからこそ泣いた日もあったし、別れないでとすがりついた時もあった。でも今は違う。彼はもう赤の他人だし、いっそのこと俺が傷つけてやろうと思ったからこの家に来たのだ。  「俺がアンタの部屋に来たから久しぶりにヤれると思いましたか。でも残念なことに俺はもうあの時みたいな純粋な気持ちはない。別れた時はそれこそ寂しくて何人とも関係を持ったぐらいです。今だって好きな人はいるけどその人には女がいるから体の関係だけを持っているんですよ。それに他にもセフレがいる。」  驚いた彼の顔。その顔が、今はひどく堪らない気持ちにしてくれる。  「もう俺は、七瀬さんなんか必要ない。」  その言葉を言った瞬間、七瀬さんは俺の肩を掴み、そのままソファーに押し倒す。あまりの力の強さに肩に痛みが走って思わず顔が歪むが、七瀬さんはやけに冷たい目で俺を見下ろした。  「へえ、そうなんだ。それを聞いて俺がどう反応すると思ったの?」  基本的に七瀬さんは優しい。付き合う前からそれは変わらなかったし、たとえ俺がどんな酷いことをしたって大抵はその優しさでなんでも許してくれるほどだ。でも俺が“特に酷い”ことをしたとき、彼の優しい顔は一気に豹変する。  昔の怖さが一気に蘇ってきて、情けないことに目元に涙が溜まってウルウルし始めた俺に七瀬さんはその様子をじっと見つめながら小さく笑った。「そういう顔、本当にたまんないね。」つい数十秒前、俺が彼に向けたのと同じ興奮しきった顔だ。

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