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第6話

 「…うん、じゃあ今すぐ行くよ。」  トントン、とネギを切っていた包丁の手が止まる。  後ろのリビングのソファーで座りながら楽しそうに会話をするあの人の声に心臓が悪い意味で一瞬止まったような気がした。…え?行くってどこに?何事もなかったかのようにまたネギを切りながらそうやって思考を巡らせれば、いつの間にか背後に立っていたその人は「美津」と俺の名前を呼んだ。  「今から“仕事”に行ってくるから、やっぱりご飯は一人で食べてて。」  またですか、とは咄嗟に思ったけど、口には出ない。  「……はい、分かりました。」  そう返事をしたあと玄関のドアが閉まる音がして、呆然とその場に立ってどれぐらい経ったのだろう。気づいたときには切っていたネギはもう水気が飛んでいて、おまけに鍋の中で作っていた煮物もコゲてしまっていた。  七瀬さんは、いつだって俺よりも他の女を優先する。  恋人よりも仕事を優先する考えに決して大賛成という訳ではないが、それも仕方ないことだと初めから割り切っていた。俺には俺の生活があるように相手にも相手の生活があるからだ。何もかも自分の枠の中に人を当てはめてはいけない、それぐらい分かっていたし覚悟もしていた。  高校2年の夏。興味本位でゲイバーという場所へ行ってみた。  今思えば自分もなんて馬鹿なんだろうと呆れるが、身分確認はネットで知り合った年上の男から借りて、おまけに「これで君にも素敵な恋人と巡り会えるといいね。」と言われたのを覚えている。その人との間に恋愛感情はなかったが、彼からすればゲイだということを受け止め始めている俺が昔の自分のように映ったらしい。  何度か彼のパートナーと一緒に3人で会って相談に乗ってもらったりしたが、愛し合っている二人の姿はそれこそ本当に自分が追い求めていたものだった。自分の気持ちを素直に打ち明けれて、常識なんて壁はなくて後ろ指もさされない。その壁を越えた先はどれほど幸せなんだろう。  せっかく彼から貰ったチャンスだ、結果はどうであれ有意義に使わなきゃ。何よりせめてゲイバーとはどういう場所なのかだけは知っておきたい。身分確認を済ましてから店の一番隅っこの席に座り、ドキドキしながら頼んだ弱いお酒をチビチビと飲んでいく。周りの人たちはそれぞれ気に入った相手を見つけたのか仲良さそうに話していたり、少し離れた場所にいる二人はもう隣同士で座りながら肩まで組んでいた。  すごいな、自分が今まで見てきた世界がどれだけ狭かったのかよく分かる。  小中高とゲイらしき人はいなかったし、オネエ系のような女々しい男は居ても彼らは別に自分と同じじゃなかったようだ。だから自分だけが違うことにずっと悩んできたし、ネット上でそういう人たちがいることは知っていてもそれも実はただの嘘なんじゃないかと疑ってしまうほどだった。だからそのネットで知り合ったその人と実際に会って友達になっていろいろなことを教えてもらったことには本当に感謝している。  「ねえ、ひとりで飲んでんの?」  既に出来上がっているのか、やけに酒臭い男がこちらに近づいて話しかけてきた。見たところ40歳前後の男に見える。…いや、そもそもこんなにも酔っ払っている人は相手にしたくない。  『中にはただ単にヤりたいだけの奴もいるし、冷やかしもいるから無視するんだよ。』  途端思い浮かんだ、あの人が忠告してくれた言葉。ここで騒ぎを起こしてはいけないし、ましてやこの機会を逃したくない。俺はニヤニヤ口元に笑みを浮かべながら一緒に飲もうよとしつこく言ってくる男の言葉は全て無視し、何を言われても顔をひたすらに背けて耳も向けなかった。相手があまりにもしつこいことに気づいた店員が助けてくれたことに今でも感謝している。あの店員のお兄さん、カッコよかった。  それから半年ほどそのゲイバーの決まった場所に座るようになり、いつしか『人形』と変なあだ名まで付けられた。夏休みという休暇もそろそろ中盤に差し掛かり、進路についても考えなければいけない時期になる。もうここには通えないかもしれないが、次は人の身分証を借りるのではなくちゃんと大人になってからまた来よう。今日もまたあまり得意じゃないけどなんとか飲めるジントニックを口に運んだ。  自分に恋人が出来なくてもいい、世の中には自分と同じように同性のことが好きなんだという人が本当に存在しているということが分かればそれだけで俺は心強かった。…しかしいま思えば、どうしてここでゲイバーに通うのをやめなかっただろう。  「暇なら少し話をしてもいいかな。」  今日もまた話しかけられた。面倒だなぁと思いながら顔を上げるとその人は思わずこちらの思考を一瞬にして奪っていくほど整った容姿をした若い男だった。…え、どうしてこんな人が?もしかして彼もゲイ?  話…するぐらいならいいか。気持ち悪かったら直ぐに帰ればいいし、店の中にいたら乱暴は絶対にされない。  「…俺でよければ。」  「そう。よかった。」  ニッコリと微笑んだ男が目の前に座るのを驚いた様子で見つめるボーイとママ。ああ、俺もまさかこんなカッコいい人と話せるとは思ってもいなかったよ。でもどうせもう通うことはなくなるんだったら最後に誰かと会話をしてみたいと思ったのだ。  「ここには何度も来ているんだ?さっきママから君のことを聞いてさ。いつもこの席に座っている静かなお客さんだって。」  「…知ってます。人形とか言われてますよね。」  「あはは、確かに人形みたいに綺麗な顔をしているなぁと思うよ。じゃなきゃこんな目立たない席で座っている人を誰も気にしないだろう。」  顔のことを誰かに褒められるのはあまりいい気がしないしむしろ関心すらないが、こんなにも綺麗な人に言われれば少しは嬉しくも思える。  「あなたは初めて見る顔ですね。今までお店で見たことない気がする。」  「営業時間内で来たのは初めてだよ。ママとは知り合いだから店が終わった後とか始まる前に来ているんだ。」  へえ、とその話に相槌を打ちながら聞いていくと、どうやらこの男の人は別で通ってるゲイバーでママと知り合ったらしく、それからは定期的にママと飲んだり話をしに来るらしい。まあここのママは人当たりもいいし、少し人見知りする俺のことも気にかけてくれているようで通い始めてから暫く経った時から変な人に絡まれた時にはボーイと共に助けてくれるようになった。チラリとママの方を見れば彼はこっちにウインクをしている。思わず笑みを浮かべてしまった。  「やっぱり笑うともっと綺麗だね。」  「あの…さっきから顔のことばかり褒めてませんか?」  「あんまり褒めすぎると嘘っぽく感じる?でも本当に綺麗だから思わず言ってしまうんだよ。」  ふふ、と笑ったその男のほうがもっと綺麗なのに、とはあえて言わないでおこう。  男との会話は思った以上に弾み、きっと彼の話術に助けられているんだろうなと感じた。会話は途切れないし、気づいたらお酒も飲み干してる。いつもより少し早いペースで飲み終えたせいか、少しだけクラクラとしているがこれぐらいなら一人でも大丈夫だろう。誤った判断はしない。  「酔っ払ってきた?そろそろ店出て帰ったほうがいいね。」  「…すみません、楽しくてつい…。」  「本当?ならまた一緒に話そう。俺も君と話してて楽しかったし、それに本当は緊張してたんだ。俺もほかの客のように拒絶されたらどうしようかなって。」  でも、話せてよかった。そう微笑む彼の顔に、頬がアルコールとは別の何かで熱く染まっていった。  *  ゲイバーに通うのはもうやめるなんて言った自分はどこへいったのやら。  それから何度もその人とゲイバーで共にお酒を飲みながら楽しい会話をし、気づけば俺もあの人に会う前にはどういう話をしようかと楽しみに胸が膨らんだ。翌日に会った際に初めてお互いの名前を教え合い、彼は「美津」と俺を呼び、俺は「七瀬さん」と彼を呼ぶことになった。本当は下の名前で呼ぼうとしていたが、俺は美津と呼ばれた方が慣れているため苗字でお願いしますと頼んだのだ。  8月28日。夏休みがそろそろ終わりを告げようとしたその日、今日もまたその人とゲイバーの決まった席でお酒をチビチビ飲みながら会話をする。でも不思議なことにその人は今日、お酒を頼まずノンアルコールのカクテルばかり飲んでいた。「今日はお酒飲まないんですか?」と聞けば彼は「うん、今日は一滴も飲まないって決めてる。」と答える。少しは疑問に思ったがきっと健康のためだろうと適当に頭の中で片付けた。  ジントニックを2杯飲み終え、ほろ酔い気分になった頃にはもうそろそろ閉店間際時間になっていた。  俺の家には門限といった決まりはなく、放任主義ではあるためだが、俺はどちらかといえば両親が育児放棄をしているようにも思えた。子供のことは無関心で全て自己責任だというやり方の両親は俺が夜遅くまで酒飲んで帰ってもタバコを吸っても怒ったりしないし、朝帰りしたり家を何日空けても何も言わない。愛されてないなとは思うがこれもまあ仕方ないことだ。こんな家に生まれてしまったんだから慣れればいい。  俺への愛情がすべて弟に注がれているのならそれでいいのだ。  「…そろそろ帰る?」  「はい。今日も楽しかったです。」  「うん、俺も。あ、払っとくからいいよ。」  会計を済まそうと財布を取り出しながら立ち上がろうとしたが、七瀬さんは伝票を手にするなり直ぐにレジの方へと向かい、俺が慌てて追いかけるも追いついた頃にはカードで支払いを終わらせていた。は、早い…!というかママもワザと早く済ませたんじゃないか?  七瀬さんはママと軽く会話をしてから俺と一緒に別れを告げて店を出た。ほろ酔い気分で頬に吹く涼しい風は心地がいい。酒の力を借りて寝るのはあまりよくないことは知っているが、この頃は七瀬さんとまた楽しそうに会話をしている夢を見るからこれは一種のおまじないのようになっている。どうか、今夜も彼と楽しく会話をしている夢を見れますように。  大きな車道に出るまでの道を二人で並びながら歩き、ほわほわとした頭の中で呆然としていると七瀬さんは急に足を止めた。それに気づいて俺も足を止め、振り返ってその顔を見る。どうしたんだろうか。  「…美津、これからも俺と会ってくれる?」  何をいきなり聞いているんだろうか。思わず何かの冗談かなと思ったがどうやら違うらしい。真っ直ぐに見つめられて俺は自分の手を強く握り締めた。「はい、会いたいです。」そう答えるだけでどれぐらいの勇気を使ったんだろう。それから七瀬さんは「俺も会いたい。」と言い、そっと俺に近づいてきた。目の前に立つ自分よりも10cm以上高い彼を見上げながらまた何を聞かれるんだろうと言葉を待っていれば彼は小さく「ごめんね。」と口にした。  「俺、やっぱり美津のことが好きみたい。」  「……え。」  「今までドキドキしていたのはお酒を飲んでいたからだと思ってた。だから今日はお酒を飲まないようにしてたけど、やっぱり違ったよ。美津が好きだからずっとドキドキしてる。」  自分の胸に手を当てながらそう言ってくる七瀬さんに、まるでリンクするかのように俺の心臓もまた跳ねた。初めて会った時からずっと感じていた感情。まさか、と無理やりかき消していたけど、どうやらこれはやっぱり間違いないらしい。七瀬さんはそっと手を下ろし、それから少し悲しそうに笑いながら「もう、会えないね。」と言った。  突然彼が口にした別れの言葉に俺は思わず目を見開く。  「…どうして、ですか。」  「好きだからだよ。好きだから、これからも美津と会って嫌われたくない。美津にはこのまま俺は楽しい話相手の七瀬さんでいてほしいからね。」  「でも、俺っ…、俺も、」  俺も、と口にした途端、頬が一気に赤く染まる。思わず口元に手を当てながらその言葉が出てこないように押し込むも、それも限界らしい。「好きなのに、」と出てきた言葉は、涙とともに流れた。  もし七瀬さんのことを好きになってしまったらどうしようと考えた日は何度もある。このまま告白しようか、いやでも向こうは俺のことをそんな風に思っていないだろうし、ましてや恋愛対象としても見ていないはずだ。なぜなら七瀬さんはいつも余裕がある大人で、こんなにも子供っぽい自分とは釣り合わないから。自分で考えれば考えるほど悲しくなり、両親に関心を抱かれていないことや自分だけがゲイで悩んでいたこと、それを馬鹿にされていたことなど、そんな今まで悲しい、辛いと感じていた出来事よりもこれはずっと大きくて重たい。こうして自分を抱きしめながら泣く俺は、この感情の重さに押しつぶされそうだ。  「美津、泣かないで。」  そう俺の頭を撫でる彼の体温が暖かい。夏だというのにその暖かさは嫌じゃないしむしろ心地いいと感じてしまうほど。ギュッと彼の腕に包まれ、そのまま頭を何度も撫でられながら彼は小さく笑った。何で笑うの、と思ったが泣いているため声が出ない。  「やっぱり美津は綺麗だよ。…ねえ、美津。俺はいま泣いてる美津を見て期待してもいい?もしかしたら美津も同じなのかなってドキドキしてもいい?」  触れられるほど近くにある彼の胸は自分のよりもずっと早く動いていて、ああ本当に彼も緊張しているんだということが分かったが俺は変わらないこの痛みを胸に抱いたまま「七瀬さん、好きです。」と彼に伝えた。  *  「…緊張してる?」  「あ…う、…はい…。」  あの後、七瀬さんは俺の涙が止まるまで何度も頭を撫でてくれたり抱きしめたり優しい言葉をたくさんかけてくれた。今思えばどれも恥ずかしくて今すぐ頭を抱えたくなるが、何よりも今自分が緊張しているのはこの状況だ。  綺麗に整えられた部屋の真ん中には大きなベッドがひとつあって、奥の方では浴室と洗面台が見える。もしかして、いや、もしかしなくとも俺はあの後、こうして七瀬さんとともにラブホに来てしまっている。七瀬さんは今日お酒を飲んでいないから車で来てたらしく、このまま家まで送るよと言われた。平気です、ひとりで帰れますと遠慮したが、「だめ、一人で帰したくない。」と彼が少し意地を張るものだから結局こうして二人でラブホに来てしまったわけだ。  最初に七瀬さんに「ウチに来る?」と誘われたがそっちのほうがハードルが高い気がして断ったことを今では猛烈に反省している。  「そんなに緊張しなくても、さすがに告白して初日で変なことはしないよ。」  「は…はい。すみません、そもそもこういうところに来たことなかったので…。」  「え。美津って女の子と付き合ったことはあるって聞いたからラブホとかは行ったことあるんだろうって思ってたんだけど。」  あ、やばい。年齢のこととか諸々伝えてない。  俺は少しバツ悪そうに「あの…七瀬さん」から今まで隠していた最も言いたくない言葉を切り出すことにした。  「…とりあえず、怒ってるよ。」  「本当にすみません、もう二度とゲイバーには行きません…。」  ソファーに座っている彼は静かに怒っている様子が顔に出ていて、ベッドで座っていた俺が自分のことを殴りたくなるほどには怖い。ああ…どうせなら嘘でもつけばよかったのかな。でも結局はいつかバレてしまうだろう。それなら今伝えてこれから先、嫌われて別れを告げられるよりずっとマシだ。自分の軽率すぎる行動に反省しながら目線を落としていると、七瀬さんは俺の目の前に立つなりそっと顔を上げた。見上げる彼の顔はやっぱり好きなんだと自覚させられるほどに格好良い。  「高校生と付き合うなんて思ってもいなかったけど、美津が卒業するまで待てないや。」  「え…七瀬さん…?」  「美津は可愛いからさ。俺、手とか出すかも知れないよ。そんなドラマとか映画みたいに卒業まで付き合うの我慢するとかセックスするの我慢するとか出来ない。」  努力はするけど、と言った七瀬さんの顔は赤いままで、彼に嫌われていないということだけであれほど沈みきっていた心が一気に浮き上がる。「あ、は、はい!その、七瀬さんなら、嬉しいです。」「ばか、男の経験ないくせになに軽々しく言ってんの。」ギューッと両頬を摘まれ、思わず痛いです、と舌足らずな声が出たが七瀬さんはいつもの笑顔で笑いながら俺の横に腰を落とした。  「だから、美津に無理はさせないようにする。せっかく美津と出会えて、こうして付き合えるんだ。この機会を潰したくない。…大切にするよ。」  彼のその笑みに、俺は心が締め付けられる。あ…かっこいい…本当に格好いい。自分がゲイだと認めてから初めて出来た恋人。それも何度も気持ちを隠し通そうとして何度も諦めた人と結ばれたんだ。この恋、大切にしなくては。まるで目の前に現れた赤い糸を切らさないように、俺は優しくそれを確かにこの手で掴むことにした。  あの頃までは。

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