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第7話

 「今日は何時に上がるの?」  「じゃあまたあそこのバーで待ってるよ。」  「うん、じゃあ美津が来てくれたらすぐに帰るから。」  念の為に言っておきたいんだが、俺は数週間前この男にレイプされたはずだ。確かに元恋人ではあるが、だからといってこうして何度もバイト先にやってきては客の振りをして俺が上がるまで待っているのは立派なストーカー行為だと思う。おまけに携帯には男の連絡先がいつの間にか入っていたし、何度もメールと電話がかかってきている。会いたくない、迷惑ですとはっきり伝えたはずなのにそれでもこうして目の前にいるということはやっぱりそろそろ弁護士とか探すべきだろうか。  「最近、美津さんのお友達よく来ますよね。」  嬉しそうに少し頬を赤らめた女の子たちの言葉に「じゃあお前らが代わりに付きまとわれろよ。」と言いたくなったがここは頑張って飲み込んだ。世の中にはイケメンであれば何でも許されてしまう法則がある。ここは是非ともあの七瀬さんのイメージを落としてやりたいところだが綺麗な容姿に騙されてる彼女たちならきっとまた都合のいいように解釈するだろう。  …というか、そもそもゲイだということをカミングアウトできるはずもなく。  こういう時に肩身の狭い思いをしてしまう。  あのゲイバーのママみたいに何でも相談できる友人がいればなぁ、なんて思っていると後ろから「みーちゃん。」と結城に呼ばれた。  「店長が今度の飲み会、近くの居酒屋にしたいって言ってるけどどうかってさ。」  「あー、俺参加しないし別にいいんじゃね。」  「もうみーちゃん!一緒に行こうよー!」  先週から男女兼用の更衣室にある掲示板で貼られていた飲み会の開催を知らせるプリント。どうやら今月の売り上げが予想以上に良かったらしく、この調子で頑張ってくれよと社長が提案して開かれる飲み会のようだ。正直飲み会とか苦手だし、騒がしい居酒屋で飯を食うぐらいなら静かな自分の家でカップラーメンでもすすったほうがマシだという考え方の俺は当然のごとく参加する予定はない。だからあのプリントの一番下にある参加希望の欄にも名前を書き込まなかった。  「タダ飯だし、ノンアルのカクテルとかもあるしさぁ。」  「嫌だ。そういう飲めない奴に限って酔ったやつの介抱を任されるんだぞ。」  うう、それはそうだけどさあ…。ため息をつきながら少し拗ねた顔を浮かべる結城。なんだかその顔が少し腹立って頬をつねってやると彼は「みーちゃん痛いっ」と言う割にはなぜか嬉しそうな顔に変わった。え、実はそういう趣味もあったのかこいつ。  「とにかく俺は絶対行かないからな。」  みーちゃんのケチ!と背後から聞こえた声を無視してホールを見回りながら空いた皿を下げていくと、珍しく七瀬さんが俺ではなく、ジッと誰かを見つめている横顔が目に入った。真面目な顔というより怖いとすら感じてしまうその顔。思わず視線の先にいる人物を確かめようとするも、彼は「美津。」と声をかけてきた。  「お会計お願い。」  「え?は、はい。」  珍しいな、今日は来て1時間と経っていないのに。  時計を見れば時刻はまだ午後11時前。いつもの彼なら俺が上がるまで小説のネタでも書きながら待っているか、もしくは裏にあるバーで待っているはず。珍しいこともあるんだな、なんて思いながら会計をささっと済ませた。きっと仕事が入ったか、もしくは別の用事だろう。というか、別に七瀬さんのことなんてどうでもいいじゃないか。  「3000円のおつりです。」  おつりの札を手にした彼はそのまま財布に入れ、「また連絡するね。」と少し素っ気なく言い残して店を出た。カランカラン、とドアの閉まる音だけが店内の音楽とともに響き、なぜか俺の心は少し痛んだ。何かしてしまったんだろうか、いや、別に七瀬さんのことを気にしているんじゃなくて…。  ただ、自分のもとをこうして去っていった彼が昔のあの頃と少し重なってしまった。  *  また連絡するね、と彼は言ったものの、結局はあの日から携帯が震えることなく、こうして3日、4日、1週間と過ぎていく。講義中、メールの着信を知らせる振動に慌てて携帯を取り出すも、嬉しいはずの藤谷からの連絡に俺は小さく息をついた。なんだこれは、これだとまるで1年前に戻ったみたいじゃないか。もうあんな男なんか気にしなくてもいいのは分かっているが、連絡するといったくせに連絡をよこさないのは何故か不安になる。きっと仕事で忙しいんだ、そうだそうだ。自分に何度もそう言い聞かせながら俺はバイト終わりのスタッフルームを後にした。  『……七瀬、さん。』  ガバッとベッドから起きると着ていた寝巻きがビッショリと汗で濡れていて、同じように少し汗ばんだ手で触れてみれば頬も濡れていた。しかしそれは汗とは全く別のものでそれが涙だと理解するのと同時にどうしてこうも自分はあの時のままなんだと嫌悪感に頭を抱える。ここ数日、何度も自分に違うと言い聞かせながら否定してきたはずなのに心がいうことを聞いてくれない。同じ夢ばかり見てしまうのも、こうして泣いて起きるのも、全部あの人のせいにしてしまいたい。  けどそれは自分が七瀬さんのことを意識しているって認めてしまいそうで苦しい。  濡れてしまったパジャマの袖で無理やりに涙を拭い、このままもう一回お風呂に入ってから寝なおそうと考えたとき携帯が震えた。  そんな、ありえないと分かっているのにどうして期待してしまうんだろう。枕元に置いているそれに目を向ければディスプレイに表示された『七瀬由紀』の名前に反射で手が伸びた。  このまま出ないで放置することだって出来たというのに、どうして手が伸びてしまったんだろう。けどそんなことが一瞬頭をよぎっても、手にとった携帯の画面の緑色のボタンを指で触れてしまったからどうしようもなくなってしまう。  「……もしもし。」  寝起きのひどい声。情けない。  『出てくれないだろうなって思ってた。』  数日ぶりに聞いた七瀬さんの声が愛おしく感じてしまう自分を、途端にまた涙が滲んでしまう自分を空いた左手の拳でコンッと軽く額を殴った。  『突然新しい仕事が舞い込んできたからなかなか時間が取れなくて連絡が遅れてしまったんだ。ごめんね。』  「…別にいいですよ、そんなの。」  『怒ってるんだろうなって思って。』  「怒ってません。」  『寂しい思いをさせたくなかったから、』  だから寂しくもないですよ、と2回目の強がった言葉を発する前にインターホンが鳴り、俺は思わず言葉を失う。こんな夜中に突然やってくる奴なんて結城ぐらいだろう。しかし結城は鍵を持っている。とすれば思いつく人間なんて一人しかいない。  ドタドタと足音を立てながらリビングの電気をつけて普段あまり使わないテレビドアホンを見ると、ディスプレイにはニッコリと笑顔を浮かべる七瀬さんがいた。「あ、今見てる?」意味なく手を振る七瀬さんの姿に俺は思わずやっぱりこのまま何もなかったことにして寝直してもよかったのかもしれないと改めて思った。  「お邪魔します。」  結局、あのまま彼を放置することも出来なくて俺は七瀬さんを家に上がらせることにした。本当は結城以外だれもこの家に上がらせたくなかったが仕方がない、もう終電もタクシーも少ない夜中3時に七瀬由紀大先生を帰らせるわけにはいかない。そうだ、どれだけこの男を嫌ったって彼は世間の注目を浴びている大人気小説家だった。あんな男なんか、と言っていた自分が急に虚しく感じる。何を強がっていたんだ俺は、結局はこうして折れてしまうというのに。  「そもそもこんな夜中に押しかけてきて迷惑だとは思わないんですか。」  呆れながらリビングに入ってソファーに腰を落とすと七瀬さんは目の前に立つなりそのまま俺の顔を上に向けた。「だって会いたかったんだから仕方がないだろう。」腹立つ。性格が最悪だというのに顔だけは美形とか最高に腹が立つ。「…ああそうですか。」無理やり彼の手を掴んで離し、それからフイッと顔を逸らす。こうも子供っぽい態度を取ってしまう自分も情けない。しかし七瀬さんを目の前に文句を並べたところで彼はきっと都合のいいように受け止めてしまうだろう。  横に座った七瀬さんは何か思い出したように「そうだ、これ美津にあげようと思って持ってきたんだ。」とずっと持っていた紙袋を手渡してきた。少し眉を寄せながらも「なんですか」とそれを受け取り、袋の中を覗いてみれば有名な温泉地の高そうなお菓子が中に入っていた。  「仕事で行ってきたんだけど、なかなかいいところで是非とも美津と行きたいなーって思って。けど多分断られるだろうからせめてお土産でもって。」  「はい、死んでもあなたとは行きません。」  「じゃあそれは受け取ってね。」  また勝手に決められてる…と眉を寄せてしまうも、まあ受け取るぐらいはいいかと俺はそのままテーブルに置いた。  「…ッ、ちょっと、何して…」  頂いたお土産を机に置いて早々、七瀬さんは俺を押し倒しては抱きしめてきて、その腕を解こうとするも彼は手の力を緩めない。特に服を脱がされてるわけでもなく、ただ単に抱きしめられていることに俺は少しだけ戸惑いを感じた。七瀬さんは俺を抱きしめたまま「一人にしてごめんね。」と耳元で呟く。それに俺はさっきまで自分が押し殺していた感情がふつふつと湧き始め、抵抗する手をやめた。  彼といた3年の時間は長い付き合いの友人や家族と比べれば短いものだが、たった3年間で彼は自分のほとんど全てを知っていた。  口が悪いところも強がるところも知っていれば本当は寂しがりなところを知っている。七瀬さんから与えられた愛情はこの全身で受け止めては自分なりの愛情も彼に返しているつもりだ。七瀬さんはずるい、あんなに二度と彼を心のなかには入れさせまいと決めたはずが気づけば空いた隙間から彼が染み込んでくる。いやだと拒んでもそれは暖かくて、同時に涙がほろりと零れてしまいそうな安心感もあった。

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