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第8話

 七瀬さんとは、結局セックスをしなかった。  お互い明日の予定もあるし、早く寝て休もうと寝室のベッドで横になっても七瀬さんはそっと抱きしめてくるのみでそれ以上は触れてこようとしない。思わず、「しないんですか」と聞けば、「美津から求めてきたらするよ。」と言うものだから一生それはねえよと心に思いながらそのまま眠ることにした。七瀬さんなりにあの晩に無理やり抱いたことは反省しているようで、何度かごめんねと謝られたが返事はしないでおいた。別に女のように無理やり抱かれたところで最悪の事態というのは起きないし、いくらショックだったとはいえそれを未だに気にしている自分もなんだか女々しいと思ったからだ。  朝起きて、七瀬さんと朝ごはんをともに食べて、それから大学の講義を受ける。  七瀬さんを除けばなんてない日常の生活だが、それらがすべて1年前の付き合っていた日々に戻ったように感じてやけに自分の中にしっくりと来ていた。別れたはずなのは分かっているが、なんだか今まで大喧嘩していたが突然仲直りしたみたいな展開になっていることに心が受け入れている。いや、あの人とは別れたんだって何度言わせるんだ。  「よっ、美津。今からバイト?」  3限目の講義を終え、講義室を出ると全く違う学科のはずの藤谷と出会った。セフレに限らずちょっと会うと気まずい相手と大学が一緒で困ることと言えばこういうことだろう。俺は藤谷の言葉に頷いて返した。  「今日は早めに店閉めるらしいから。」  「あ、俺んとこもだよ。今日は飲み会があるからだろ?」  うわ…完璧に忘れてた。そのことが顔に出ていたのか藤谷は腹を抱えながらあははと笑い出し、「美津のその様子だと忘れてたみたいだな。」と指摘された。間違ってないがなんだか少し腹が立ったから藤谷を無視して歩く速度を速める。すると彼が「ごめんって。」と謝りながら追いかけてきた。  「まあ、別に俺は行かないからいいけど。」  「え、美津行かないの?」  「俺なんかが行ったら空気悪くするだろ。」  「別に空気悪くならないと思うけどなぁ。逆に美津が来てることで喜ぶ女の子もいるだろうし。」  藤谷は言ってみればおおらか。しかし悪く言えば細かいことには少々鈍感で俺がいくらバイト先の人に嫌われていると言っても気のせいだろうとかそういった言葉で片付けるのだ。まあ、藤谷に本気で相談をしようとはまず考えてすらいないけども。  「せっかく美津と会えると思ったのになぁ。」  本当、その性格は早く直して欲しい。今、その言葉を聞いたら俺がどんな気持ちになってしまうのか分からないくせに。  いちいち藤谷の言動に過剰に反応してしまう自分もつくづくバカだなって思う。  *  「――かんぱーい!」  それぞれが飲み物の注がれたグラスを持ち上げて掛け声と共に近くの人と乾杯を交わす。  時刻は午後11時。早めに店を閉めた今日の飲み会の参加者は店長と結城含め、12人が参加することになった。おまけに今回は別店舗の方々も同じ場所で飲み会を開いたらしく、こうして見て見れば今回の飲み会に参加してる人数は30人を超している。  何故、あれほど参加しないと言っていた俺がこの場にいるのかというと、早くに着替えを済ませて帰ろうとしていた俺を結城が捕まえ、「美津も一緒に行かなきゃ俺も行かない!」と騒ぎ出したのだ。恐らく参加する女子たちの目的でもある結城が不参加となると俺への風当たりも酷くなるどころか一生この店で働けないと感じた俺は突き刺さる彼女たちの目線を見て見ぬ振りをして止むを得ず参加することにした。  結城は後で殴ろうと思う。  ……参加してほしいって言ったくせに、結局こうなるじゃんか。  ちらりと横を見れば結城、藤谷はもちろんのことイケメンな男店員を女たちは囲うようにしてそれぞれの話で盛り上がり、店長たちは宴会のようにガハハと笑っては奥さんの愚痴をこぼしている。一人、壁側の席に座った俺は無理やり注文させられたよく分からないカクテルちびちび飲みながら壁に体を預けた。  情けない。別にみんなの話の輪に入りたいとは思わないが、こうして何一つ文句言えずにただただ座っている自分が情けない。はあ、とため息をつきながらタイミングを見計らって抜け出そうかななんて思っているとふとテーブルの上においた携帯が震えた。  『今日は早めにお店閉めたんだね。』  メールを送ってきたのは言うまでも無く七瀬さんで、今日も来るつもりだったのかと思いながら事情を説明する。するとメッセージを送信して2分ほどで電話がかかってきた。  「はい。もしもし。」  『もしもし。美津、平気?』  「平気って何がですか。」  『そういう飲み会とか参加するの苦手だって言ってただろ。お酒も飲めないのに参加して大丈夫かなって心配して。』  別に心配しなくても、とそこまで出掛かった言葉を俺は飲み込んだ。  何も考えず、本当に軽い気持ちでつい言ってしまったのだ。「なら、来てくれますか。」って。きっと酒の酔いが少しだけ回ったのだろう。  七瀬さんの返事もろくに聞かずに店の名前だけを言って電話を切り、それから暫くぼんやりと彼の影を思い浮かべる。ダメだな、やっぱり酔っ払っている。考えたくないことを何故いまこの場で思い出しているのだろうか。  「……美津さん、大丈夫ですか?」  「あー…うん、なんとか。トイレ行ってくる。」  横から話しかけられた人の顔も見ることが出来ず、そのまま店の中にあるトイレへと駆け込んだ。話しかけてきたの誰だっけ。確か料理を取り分けてくれた人なんだけど…名前が思い出せない。ただぼんやりと何処かで見たことのある顔ということだけは知っていたため、後でまた席に戻ったときにでもお礼を伝えよう。適当に知り合いの振りをすればなんとかなるか。  暫くしてトイレを後にし、自分たちの席がある座敷までの廊下をとぼとぼと歩いていると携帯がまた震えた。  『いまお店の中にいるよ。』  どこのメリーさんだ、と咄嗟に思ったものの、七瀬さんが座っているという席を店員さんに聞いて親切に案内されたテーブルには珍しくスーツ姿の七瀬さんがいた。スーツということは今日は誰かお偉いさんとでも会ったのかな。  「あーあ、やっぱり酔ってる。さっきまで何飲んでたの?」  「…何だろう、適当に渡されたカクテルなので…ピーチフィズかなぁ。」  「ピーチフィズで酔う人初めて見たよ。」  「お酒弱いのは遺伝なんですから仕方ないじゃないですか。」  こうやって目の前でビールを飲む七瀬さんの方が俺からしたら理解できない。カクテルならまだしも、ビールなんてただ単に苦いだけじゃないですか、と言ったものの結局は美津は変わらないね、お子様だと笑われた。  「でも、そこが可愛いよ。」  「…酔っ払い相手に口説かないでください。」  「口説いてるつもりはなかったんだけどね。っていうか、こうして隅っこの席で向かい合わせで飲むのも久しぶりだからさ、つい。」  ぎゅ、と思わず彼の見えていないところで手を握り締める。それから自分の気持ちを誤魔化すように握り締めた手から力を抜き、目の前にある彼のビールへと手を伸ばした。え、ちょっと、と少し動揺する彼の言葉も聞かずにそれを一口だけ飲み込んだ。  「うえ……くそマズ…」  「バカでしょ、何やってるの。」  七瀬さんはテーブルの上に置かれた水入りコップを俺に握らせ、それからまだ口の中に残るビールの苦さを冷たい水で流し込むことにする。思えば、昔はこうして彼の飲んでいるお酒に興味を持ってそれ何てお酒ですか、とか聞きながら一口もらったりしたな。  なんてことを今思い出しているんだろう。  「もう辛そうだし、同僚たちに一言言ってから出る?」  「……はい、出ます。」  呆然とする頭の中、またしても蘇ってくる七瀬さんとの記憶に俺は何度も無理に掻き消し、それから水を飲み干してから立ち上がった。まだ賑やかな声が聞こえる座敷へと向かいながらチラリと顔を覗かせれば、何人か既に帰っているようで席を離れた時よりも人数が少ない。これなら挨拶しなくても帰れるのでは?と思いながら自分の荷物が置いてある席へと戻り、テーブルの上に置いてあった携帯や足元にあるカバンを手に取り、それから気配をなるべく消すつもりで忍び足のまま座敷を後にする。  バレてないな…いや、そもそも俺が帰ったところで何も変わらないからバレるバレないは関係ないのだろう。  酔っているからか、いつもなら少しは気分が落ち込むというのに今は待ってくれている七瀬さんがいるというだけでも気分がいい。むしろこの苦痛とも思える場所から救い出してくれた彼は救世主のようにも感じる。  「おかえり。」  店のレジ付近で待ってくれていた彼は俺を見るなりそう微笑み、悔しいがその言葉と憎めない綺麗な顔にドキリとしてしまった。  二人で店を出て、夏の夜の涼しい風に吹かれながら二人して歩き出す。歩き出したのはいいものの、果たしてどこへと向かっているのだろうか。  「この後どうしようか。」  まるでこちらの思っていたことが口に出ていたかのように察しがいい彼は歩きながらこちらに目を向けた。どうしようなんて聞かれてもこちらにも特に考えはない。沈黙を貫いていると七瀬さんは小さくふふ、と笑い始めた。  「真剣な顔して悩んでる。帰りたいって言ってくれていいのに。」  「…別に、俺は口悪くてもそこまで無情な人間ではないですよ。」  「じゃあ俺の事心配してくれてた?せっかく迎えに来てくれたのにって。」  「はい。」  あれ、今日は素直だね。また笑いだす七瀬さんを見つめながら、ああそういえば俺この人のことあんなに二度と会わないとか早く自分のことも忘れてほしいと思っていたのに、何で今この笑顔を見て独り占めしたいだなんて思ったんだろう。他の人にも同じ顔を見せていたんだと思うと胸が苦しい。  「また今日も一緒に寝てもいいの?昨日は何もしなかったけど、今日は違うかもしれないよ。」  「…俺から求めたらするんでしょ。」  「そのつもりだったんだけど、今日の美津は酔っぱらってて可愛いからつい…ってなっちゃうかもね。」  「じゃあ、それでいいです。抱いてください。」  さすがの七瀬さんも今の俺の言葉には驚いたようで、少しだけ目を見開いて驚いている様子が横目で分かる。まあ確かに酔っぱらっていなければまずこんな誰が通っているか聞いてるか分からない道端で抱いてくれとは口が裂けても言わないけど。それから七瀬さんは俺の腕をつかみ、二人で足を止めるとやけに真剣な顔で「本気で言ってる?」と聞いてきた。何なんだ、いつもなら美津がそう言うならとか言って喜ぶというのに。  「他の人にも同じこと言うの?それとも俺だから言ってくれてるの?」  「…そんなの、アンタが…」  昨日からずっと頭の中では七瀬さんのことしか考えていない。いや、再会した日から?それとも初めて会ったときから?もう自分の思い出せる限りでは常に彼のことを考えていて、何度もそれを掻き消そうと必死になって、ここのところずっとそれを何度も繰り返している。  何も答えられず、涙がたまっていく目元を隠すように顔を俯かせて腕で目元を押さえた。情けない、いつもこうして言葉に詰まってしまう。悔しいけど、それほど自分の中で七瀬さんは大きな存在であったことを改めて思い知ってしまった。それは七瀬さんも理解してくれたのか、「ごめんね、変なこと聞いてしまって。」と胸の中に抱き寄せながら何度も背中を撫でてきた。別に自分が答えられないのは七瀬さんが悪いわけではないのに、ごめんねごめんねを繰り返して、一体どこまで優しいんだこの人は。

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