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第15話
結局、浅葱に理由を言えないまま翌日になり、俺と彼は大学へと向かうことになった。本音を言うとこのまま大学もバイトも休みたかったが、結局はいつかはこういった日が来るものだから向き合わなければいけないと思って休めなかった。
普段はあれほど長いと感じる授業がこの日に限って直ぐに終わり、最高に気分が重いがそのままバイトへと向かう。
浅葱は俺よりも1時間早くシフトが入っているので一緒には行けなかったが、最寄駅に着いて店へと向かう道中で藤谷に「あれ、美津じゃん。」と呼ばれてしまった。
「そういや同じ時間からだったよな。ここのところヘルプに行ってなかったから忘れてた。」
「そっちの店もなかなか忙しいんだろ?ヘルプなんてもう断ったほうがよくないか。」
そっちの店長にそう伝えとけ、と軽く思いながら藤谷に言ってみるも、彼は「まあ忙しいのは確かだけど」と小さく笑った。「美津と一緒に働けるんだから続けたい。」その言葉はあえて聞かないことにした。藤谷も浅葱同様に顔が自分のタイプだということを改めて思い知らされた気分だ。
「いらっしゃいませ…って、おはようございます。」
店の中に入ると慌てて出迎えてくれたのは浅葱で、彼は俺と藤谷に頭を下げてから微笑む。お前は普段からその裏のない笑顔を客に振りまいているのか、後で文句でも言ってやりたい。
藤谷と共におはよう、と言いながら店の奥へと向かい、スタッフルームに入ると今度は「みーちゃんおはよ!」と結城が挨拶をしてきた。このダブルコンボはキツい。
「お、今日は結城さんと同じシフトだったのか。」
「そうなんだよね。藤谷と一緒に入ってるのって何気に久々だなぁ。」
「邪魔だから通らせろ。」
背はそれほど低い訳ではないが、こうも自分より高い男たちが入り口を塞いで楽しそうに話しているのは心の底から邪魔だと思う。二人の間を通り、それからいつものようにロッカーに物を置いてから着替えることにした。仕事だ仕事。とりあえずこの最悪なシフトを乗り越えれば後はもう楽なはず。そして店長に文句を言おう。
「みーちゃん、香水変えた?」
バイト用の服に着替えながら隣でそう話しかけてきた結城に俺は「変えてない。」と言いながら今日やることを軽く頭の中で整理する。しかし結城は「本当に?」と詰め寄ってきて、思わず隣の藤谷に背中をぶつけてしまった。
「だから変えてないって言ってるだろ。」
「けど、なんか違う香りと混ざってるんだよね。」
「お前は犬か。大学とか電車とかで違う人の香りと混ざったんじゃないの。」
まだ近づいてくる結城を押しのけ、それから着替えを済ましてから俺はそのままスタッフルームを出てタイムカードを押しに向かう。香りが変わった、とあれほど言われれば少し気にはなるが、もしかして浅葱の香水と混ざったのか。レジで今日の予約リストを見ていた浅葱に近づいてタイムカードを押すも、正直あまりよくわからない。そもそも大量につけている訳でもないし、よほど近づかないと香りなんて分からないからきっと結城の勘違いだろう。
「あ、美津さん。このお客さんなんですけど、個室に変更出来ないかって電話がかかってきたんでテーブル変えても大丈夫ですか。」
「いいよ。あ、皿は俺が片付けるわ。」
「わあ、ありがとうございます。」
予約席だったテーブルの皿を片付けながら個室へと持っていき、それらを並べていると「いらっしゃいませ」という結城の声に続き、ほかの店員もまた声を続かせる。綺麗にセット出来てから俺もホールに出ると店長が「美津くん、今日もキッチンお願いしてもいい?」と言ってきた。それに対して「はい」とだけ返事を返し、俺はもう一度手洗いしてからキッチン用の手袋に手を通す。
「美津さん、今日はキッチンなんですね。」
「うわ、珍しい。美津のキッチンに入ってる姿見るのいつ振り?」
「えー!キッチン俺も入りたい!」
一人だけでも充分なほど鬱陶しいが3人集まるとこうもうるさくなるのか。全員に白い目を向けながら「仕事に戻れ。」と追い払い、それから俺は仕込みを開始することにした。まあ、キッチンの仕事のほうがまだ楽だな。ホールだったら3人と関わっていたし面倒なことになっていただろう。まあ、あまり場所を動かないキッチンもまた絡まれたら面倒だけど。
店の忙しいピーク時が過ぎ、また平日の落ち着いた10時頃になると従業員たちはそれぞれいつもの場所で世間話をし始めた。彼らが集まるいつもの場所というのが出来上がった料理を受け取るキッチンの目の前で、嫌というほど目に入るその場所に今だけでもホールに戻りたい。
予想通りイケメンが3人も集まれば女性従業員たちはまるで合コンかのように彼らを囲んで話をしていて、俺は1ミリも会話の内容に興味がないが、ふと耳に入ってきた会話に思わず動揺を隠せなかった。
「浅葱くんって読書が趣味なんでしょ?なにか面白い本とかオススメの作家さんとかいる?」
「気に入った作家さんの本は全て読んでいるんです。その中でも特に好きなのが七瀬由紀先生なんですよね。」
「え、待って。名前知ってる!最近よくテレビとかでも紹介されてるよね?」
おいおい、まさかとは思っていたけどその名前を出されるとは。
浅葱の部屋に行ったとき、確かに七瀬さんの本がやけに全巻揃えられていることには気づいていたが、特に好きだったなんて聞いていない。野菜を切っていた手を思わず止めてしまったが、それから俺は何事もなかったのように作業を続ける。確かに七瀬さんの本は俺も読んだことあるが、表現の仕方がとても綺麗で、つっかえることなく文章がスラスラと読めたのを覚えていた。現に別れてからも実は密かに本を買って読んでしまうほど彼の小説は人を惹きつけるものがある。あくまで作家として好きなんだと何度も自分に言い聞かせているけど。
「前に雑誌で見たけど、七瀬先生って何だかよくうちにくるお客さんに似ていない?」
「え、そんなお客さんいたっけ?」
「いたじゃん。ほら、いつも美津さんに接客してくれって言ってた人。」
頼むから絡んでくるなよ。そう思いながら作業を続けるも、浅葱が「でも七瀬先生は多忙な方だって聞きますし、お忍びで来ているんでしたら尚更話しかけられませんよね。」と気をきかせてその話題を片付けてくれた。
「そういや、浅葱と美津って仲良かったんだな。この間、美津が授業終わるの外で待ってただろ?」
「あれ、藤谷さん見てたんですか?」
浅葱のところへ話を割り込んできた藤谷に彼は少し照れ笑いしながら逆に聞き返していた。いや、待って。お前らいつの間にそんなに仲良くなってんの。「浅葱くん、美津さんと同じ天文学部らしいですよ。」と違う従業員が彼にそう言うと、藤谷は驚いた顔で浅葱を見た。
「え、マジで?天文学部ってことはかなり頭いいじゃん。美津に勉強とか教えてもらってんの?」
「はい。もういらないからって参考書とか頂きました。」
「ずるいなぁ、俺美津に勉強教えてって言ったら1週間は口を聞いてもらえなかったんだよ。」
それはお前が真面目に俺の話を聞かないからだろ。呆れた目で藤谷を見つめると彼は「美津に後で呼び出されるわ絶対。」と何故か笑みを浮かべていた。今度こそ仕事に集中しようとしたとき、従業員の一人がやってきて「あの、美津さん。」と話しかけてくる。
「いつものお客さんがテーブルに来て欲しいって言ってました。」
「いつものってことはあの先生に似ている人?」
俺が答えるよりも先に話を聞いていた女性従業員がそう言うと彼らは何故か浅葱を引き連れて覗きにホールを回り始めた。最初からそう仕事に戻っていろ。
「今日はキッチンだから出られませんって言って。」
「あ、でも俺ひとりでもなんとかなりますよ。」
隣にいたキッチンの一人が俺にそう言ってきた。恐らくそれは手を煩わせたくないとかそういった意味合いも含まれているんだろうが、今はその気遣いが少し鬱陶しく感じる。ため息をついてから手袋を外し、もう一度手を洗ってから俺はホールに出ることにした。浅葱たちはチラチラと七瀬さんを見つめているが、本人は手帳に何か書き込んでいて気づいていないようだ。
「…はい、お伺いいたします。」
彼に近づいて話しかけると七瀬さんはこちらに目を向けてから手帳を閉じ、それから嬉しそうな顔を浮かべた。「久しぶりだね。テストどうだった?」こっちは注文をさっさと取って仕事に戻りたいんだがそんなことは気にもかけていないだろう。
「いつも通りです。」
「そう。ここのところまた忙しくなってきたから連絡出来なくてごめんね。」
そんなのはいつものことだし、さっきチラリと見えた手帳には予定がびっしりと書き込まれているのが見えた。そんなに忙しいのなら会いに来なくてもいいのに。
「いつものビールとおつまみでいいよ。」
「分かりました。」
彼がいつも頼んでいるメニューを打ち込んでいると、ふと彼はそっと俺の頬に手を伸ばしてきた。触れられた彼の手は相変わらず暖かい。思わず顔を上げて彼を見上げると、七瀬さんは笑みを浮かべたまま「久々に会えて、嬉しい。」と口にする。その言葉に思わず呆然としてしまったが、直ぐにその手を振り払ってから立ち上がった。
「…俺は嬉しくないです。」
本当はその言葉に胸が高鳴ったが、無理やり隠すようにそう言ってからドリンク場へと向かう。冷えているジョッキを取り出してからビールを注ごうとレバーを引いた瞬間、既にビールが切れていたのかその白い泡が爆発したかのように飛び散った。大惨事のように泡は顔はもちろん髪や着ている服にまで飛び散っている。
「わ!み、みーちゃん、大丈夫!?」
隣でグラスを直していた結城が慌ててレバーを戻し、俺は目に入った泡を指で拭いながらため息をつく。会う度に彼には調子を狂わされる。仕事で忙しいのはいつものことだし、会えないのも正直慣れてしまった。けど、彼はいつだって機嫌を損ねた俺の扱いをよく理解していて、直接会いに来たり『会えて嬉しい』とかそんな言葉をかけてくる。
どれもきっとホストしていたから言い慣れているんだと頭では分かっているが、どうもいちいち期待してしまうのが俺の悪いところらしい。
「美津さん、大丈夫ですか?」
浅葱がティッシュを何枚か持ってきてそれで髪や顔を拭ってくれたが、俺はこの胸の痛みやらごちゃごちゃの頭を抑えるので必死だった。それから「美津さん?」と顔を覗き込まれてから少しだけ飛んでた意識が戻って平気だと答える。
近くにある新しい樽に交換し、それからまた呆然とした状態のまま新しくビールをジョッキに注いだ。
「今日は何時に終わるの?」
ビールを彼の元まで運ぶとそう聞かれ、思わず言葉が詰まる。答えたら絶対待つんだろうな彼は。彼がもう一度俺の名前を呼んだとき、俺はそっと口を開いた。
「2時に上がります。」
「わかった。じゃあ後ろのバーで待ってるね。」
待たないでくださいとか帰ってくださいとか、そういう嫌味を言える余裕もない。事実、こうして待ってると言われて舞い上がってしまうぐらいには喜んでいる自分が居る。けどそれを隠すのに必死で俺はそのまま「…分かりました。」とだけ答えて自分の仕事へ戻った。
*
午前2時に上がり、直ぐに着替えを済ませた俺はまかないを食べずにそのまま店の外に出る。予想通り、彼は店の裏にあるバーで待ってくれていた。店に入り、彼の横の席に腰を落とす。
「お疲れ様。急いで来たの?襟元が裏返ってるよ。」
着ているシャツの襟を彼によってかけ直され、首に触れられた彼の手は少し冷たくて思わず顔が歪んだ。彼の言うとおり、いつもの自分なら襟が乱れることなんてありえないのに急いで着替えてしまったんだろう。というよりもうあまり仕事を終えたあとの事は覚えていない。先に上がった浅葱とかからメッセージが来ていることは知っているが見る余裕がないのだ。
「また酔っ払ったらあれだし、俺の家でゆっくりしようか。美津も疲れたでしょ。」
そう言って店員にカードを渡して会計をお願いし、広げていた手帳などを片付ける彼の近くに置かれていた飲みかけのグラスに俺は手を伸ばした。それが何の酒かは分からないが七瀬さんが頼むものだからきっと度数の高いやつだろう。
「…飲むの?」
普段ならやめといたほうがいいと止めてくるのに何故か今日に限ってこうも挑発した目で見つめてくる。俺はそっとその酒を口に入れて飲み、一口飲んだところで正直限界だ。熱いものが喉を通っていくような感覚に眉を寄せるも、ふと見えた七瀬さんの顔は何故か満足そうだった。
いつも通りタクシーで彼のマンションまで向かい、その部屋の中に足を踏み入れる。何度来ても中身はあまり変わらないが、最近は締切が近かったのかリビングや彼の部屋には文字が書き込まれた紙が乱雑に置かれていた。パソコンもシャットダウンせずに明るい画面のまま放置されている。
「まだ忙しいですか。」
「昨日で終わったよ。探し物してたから汚いけど。」
苦笑い浮かべながら床にまで散乱している紙を片付ける彼を手伝うように俺もその場にしゃがみこんで同じように片付けることにした。紙はどうやら予想通り小説の原稿のようで下書きのものなのかところどころに色ペンで修正を入れたりメモが書かれている。元ホストとは思えないな、なんて思っていたらふと1枚の紙が目に止まった。
“美津 洸詩”
紙の端に書かれたそれはどう見ても自分の名前で、それもよく見るとほとんどの紙に俺の名前が書かれている。それも1回のみ書かれていたり2回、3回、多いものだと10回以上書かれている紙がある。動きを止めて紙を見つめていた俺に気づいた七瀬さんは「うわ。」と普段ならあまり聞くことの出来ない慌てた声を出した。
「…なんですか、これ。俺に呪いでもかけてるつもりなんです?」
冗談交じりにそう言ってやるも七瀬さんは黙り込んだまま手で顔を押さえる。何やってんだこの人。けど暫くすると七瀬さんは顔を上げ、それからやけに赤く染まった頬のまま「返して。」と手を伸ばした。「嫌です。理由を言ってくれるまで返しません。」伸びてる手を振りはらってやれば彼は深いため息をつく。
「…本当に返してくれない?」
「理由を待ってるんですけど。」
「特に理由はないよ。…美津の名前を書いただけ。」
「こんな何回も書く必要あります?」
言い訳を言ったりするなんて彼らしくない。更に彼を問い詰めると七瀬さんはとうとう諦めたのか「…理由聞いたら引くよ。」と真面目な目を向けてきた。
「いや、既に名前を何回も書かれている時点で引いてます。」
「それもそうか。そうだね、何言ってるんだろう俺。」
「…七瀬さん大丈夫ですか?」
思わずこちらが心配になってしまって彼にそう聞くと七瀬さんは大丈夫と言いながら頷く。本当に大丈夫か?
「ほら、小説とか書いてたらいろいろと詰まったりするでしょ。そういう時に美津の名前を書いて落ち着いてるんだよ。」
「…あの、意味が全く分からないんですが。」
「だろうね。俺も正直分からないよ。」
ヤケクソになり始めた彼によるとどうやら俺の名前を書くと気持ちが落ち着いて頭の中がスッキリとするらしい。つまり10回以上も名前を書いているのはそれほど行き詰まっていたことを記しているのだとか。なんとなく言いたいことは分かったが、なぜ俺の名前を書くことで落ち着くのかに関しては全く分からない。
「なんかね、文字の響きというか流れが好きなんだよね。濁点がないから優しいイメージというか。」
自分の名前の流れなんて20年生きてきて一度もそういったことを考えたことがないが、何故か俺の名前について語る七瀬さんの顔は穏やかなものだ。その横顔を見つめていると彼は「引いたでしょ。」と言ってきた。「はい。」と頷いてやれば少し頭を抱えながら「最初から掃除しとけばよかったな。」と珍しく後悔している。
「人の名前を書いて落ち着くって、そもそもいつからやってるんですか。」
「出会った頃かな。もう3年ぐらいにもなるね。」
マジかよ…と思わず口からこぼれた。彼のそばで恋人として共に過ごしていたのに全くこのことには気付けなかったのだから。そもそも原稿読むよりも出来上がった本を読んだほうがいいと思ってなるべく彼の仕事部屋には近づかなかった。
「もうバレちゃったから何も隠す必要なくなったなぁ。」
自分の原稿を見つめながら苦笑いを浮かべる彼。けど、俺にはどうも一つのことが引っかかって仕方がない。それを口にしていいのか分からないけど、そもそも俺と彼が別れた原因というのが直接目の前で『好きな人が出来たから。』と告げられたことが始まりだ。
元々ホストをしていた人間だから恐らく俺の知らない間に客の女と何か関係を作っていたのかもしれない。本当は別れることに納得いかなかったが、それでも俺は強がって頷いた。
けど、仮に本当に好きな人が出来ていたとしたら何故今の今まで俺の名前を彼は書き続けているのだろう。
俺が何か言葉を発する前に、彼は俺の頭をそっと胸に抱き寄せた。ひどく懐かしい感覚が蘇り、少しだけ泣きそうになったがここはぐっと堪えて彼の胸に頭を預ける。こんなにも心臓の音が聞こえるほど近い距離にいるというのに、疑問一つを投げかけることが出来ないほど彼との距離は今も昔も空いたままなんだということに気づかされた。
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