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第19話

 * 浅葱目線  「あの、話ってなんですか。」  木津先輩とマンションの外まで出て、久々に外の空気を吸えたのはいいが呼び出された理由を知りたい。何だろう、何か言われるんだろうか。木津先輩は、今日のお前は調子に乗ってたぞとかで呼び出す人じゃないとは思うんだけど。  「心配そうな顔するなよ。」  そう言って木津先輩は小さく笑ったが、それから人どころか車さえ通らなさそうな小さな通りにまで連れてくるとそのままガードレールに体を預けた。  「まあ…呼び出したのはいいものの、どう切り出せばいいのか分からなくてな。面倒だからもう直球で聞くけど、いい?」  「はい。」  真剣な木津先輩の目がなんだか鋭くて、心臓を握られたかのような息苦しさを感じる。もしかして、という予想はしていたが、どうやらその予想は当たったらしい。  「そのキスマーク、美津がつけたんだろ。」  やっぱり、と覚悟はしていたがこうも実際に聞かれては言葉が出てこないものだ。僕は美津さんとどういう関係か他人に知られても正直いいと思っている。周りに後ろ指さされたとしても、僕が彼のことを好きなのは変わらない。この気持ちは誰がなんと言おうと揺らがないと決意したのも高校の時からだ。けど、美津さんはどうだろう。  「…はい。」  「あー、やっぱりな。」  「…あの木津先輩、」  僕が木津先輩に言い訳をしようとしたところ、彼は「浅葱はさ。」と僕の言葉を遮る。  「浅葱は美津のこと好きなの?」  「はい、好きです。」  なんだか尋問を受けているみたいだとは思ったが、木津先輩はそれだけ聞いて「そう。じゃあ戻ろうか。」と意外にも早く話が終わってしまった。あまりにも直ぐ終わったものだから、僕が「え、木津先輩?」と先を進む彼を呼ぶと、木津先輩は足を止めて振り返る。  「話ってそれだけですか?」  終わったのならそれでいい、けどどうかこのことは誰にも言わないで欲しい。少なくともまだ美津さんには木津先輩に打ち明けたことを伝えていないわけだし、そもそも初めて彼に告白した際、美津さんはどこか自分がゲイだということを隠しているように思えたのだ。いや、普通なら隠すだろうけども、果たしてそれを木津先輩にも言っているのかは定かじゃない。  「そう、それだけ。…まぁ、浅葱が相手なら他にいろいろ模索しなくてもいいだろうなと思ったんだよ。」  「…え?」  「お前がさ、高校の時から美津のこと好きなのはずっと前から知っていたんだよね。同じ手芸部だったし、数少ない男子部員だったし。」  木津先輩はため息をつきながらまたガードレールに体を預け、それからこちらを見てはニヤニヤと謎の笑みを浮かべる。美津さんのことが好きだったことはきっと木津先輩も気付いているだろうとは思ったがまさか本当にそうだとは。「もう少し話をしようか。」と木津先輩はそれから目線を少し落として言葉を続けた。  「美津は毎日ラブレター送られたり呼び出し受けて告白されるといったモテ方じゃないからさ。お前みたいに影からずっと見守る人に好かれるタイプだというのは知っていたから、きっとそうなんだろうなと思った。」  「…気持ち悪いと思いますか?」  「いや、別に。美津は男にもモテそうだなとは薄々思ってたからさ。」  僕も木津先輩と同じようにガードレールに体を預け、それから「本当に大好きなんです。」とずっと抱えていた思いを打ち明けることにする。ずっと惹かれて見つめていたことや、木津先輩を通して彼にお菓子を渡して欲しいと頼んだ時のことも。どうやら木津先輩はお菓子を渡してくれと頼んだ時のことは今も覚えているらしく、死ぬほど緊張していた僕の様子を思い出しては笑っていた。  「俺は浅葱のことをそれなりに知っているから、浅葱になら美津を任せられるかなって思ってるんだよ。呼び出したのも気持ちを確認したかっただけだから。」  言ってもいいのかな、と木津先輩はそう言いながら少し考えて、それから決意したのかまた真っ直ぐな目を向けてきた。  「美津、前の恋人のことをかなり引きずっているから、それで心配してた。」  前の恋人、それこそ僕もいま気になる存在ではあるが、木津先輩はそれから目線をまた逸らして思い出すように語り始める。それは自分が知らなかった、大学1年生の頃の美津さんの話。  美津さんはどうやら高校時代に出来た恋人と上手くいかなくなり、一時期大学を休みがちになっていたらしい。  きっと恋人関係だろうと木津先輩は直ぐ察したが、それでも心配で美津さんの家までお見舞いをしに向かった。出迎えてくれた美津さんはそれこそつい先ほどまで泣いていたんだろうと分かるぐらいに目が赤くなっていて、それでも気づかないフリで木津先輩は料理を作ってあげたり大学の授業について話したりした。  「元気になるまでまた来るよ」と行って木津先輩が帰ろうとしたとき、美津さんは「ごめん。」とだけ返した。そのごめんが何をさしているのかは分からなくて、心配かけてごめんという意味なのかそれともなにも言えなくてごめんなのか。それでも木津先輩は「いいよ。」と言って部屋を出た。  「俺と美津は中学からの付き合いだけど、相手の深い部分は触れないようにしている。何でかは分からないけど、それでも相手が何かあったことは察せたんだ。」  美津がこんなにも落ち込むぐらいならきっと元恋人と何かあったんだな、と。  「…そうだったんですね。」  自分もまた美津さんの恋人については正直全く知らない。話してくれたといえば告白した日の時のみだ。『…俺は…なんていうか、相手に恋人が出来たから別れようって切り出されたから別れた。』『前々から別れる雰囲気はあったから覚悟はしていたけど…別れた今が辛い。今も連絡を取り合ってる。』ということのみ。  どんな人だったとかまでは話さなかったが、今も引きずっているんだからきっとその相手は美津さんの心の深いところまで入れたんだろう。本当に、悔しい。  「そもそも美津は俺と恋愛の話は一切しないからさ、次に付き合う人がまた傷つけるような最低な奴だったら何が何でも説得しようと思った。けど、もうその必要もないな。」  僕を見て小さく笑った木津先輩になんとか笑顔を返せたが、それでも僕には不安が残る。果たして自分は美津先輩の心の奥深くまで入り込めるんだろうか。その人を忘れさせられるような人になれるんだろうか。  「…凄く不安なんです。自分なんかが美津さんの心の支えになれるんだろうかって。」  「それは心配いらないだろ。既に浅葱は美津の支えになってるよ。」  少なくともお前が美津と関わるようになってから美津は変わってきた。そう語る木津先輩は笑っていて、もし本当にそうだとしたら、僕は少しだけ自惚れてもいいんだろうか。自分が美津さんを幸せにできるかもしれないって思ってもいいんだろうか。  「美津のことを頼むわ。あいつは何かと抱え込んでしまう人間だからさ。家族関係とか名前のこととか。」  「家族関係と名前?」  思わず顔をしかめてしまったが、木津先輩は「お前なら美津も話してくれるんじゃないか。」と言うのみで答えてくれなかった。けど、美津さんにはいろいろと抱えているものがあるというのだけはよくわかった。それを自分が一緒になって支えることができたらな、とも思った。  それから木津先輩は「そろそろ戻るか。」と言って、僕もそれに答えてから同じように歩き出す。  美津さん、今の僕はどこまであなたの心に入ることができますか。  * 美津目線  気づいた時にはトイレの近くの壁に頭を預けてそのまま眠っていた。予想通りあの王様ゲームから今こうして起きるまでの記憶がなく、まだアルコールが回っているのか意識がぼんやりとしている。もう水しか飲まないとか言ったくせに何度かお酒も口に運んでしまった。酒が弱いくせにバカだな、と自分でも情けなく思ったが、やってしまったことは仕方がない。  手に握っていた携帯を見てみると着信が入っていて、どれも七瀬さんからのものだ。  どうしようか、かけ直そうかな。なんて思ったが俺は見なかったふりをしてそのまま誰かへメッセージを送ることにした。  「美津さん」  ふと名前を呼ばれて顔を上げるとそこには浅葱と木津がいて、二人は俺を心配しながら「立てるか?」と聞いてくる。少しよろけながらも、浅葱に支えられて立つことの出来た俺は木津に巾着を渡され、それから「浅葱と気をつけて帰れよ。」と見送られた。「木津、ありがとう。」とだけ言ってエレベーターに乗り込み、それから浅葱とそのまま彼のマンションを後にする。  「どこかでタクシー捕まえて帰りましょうか。美津さんの家に行ったほうがいいですか。」  人通りの少ない住宅街から大通りまで歩きながらそう聞いてきた浅葱に何を思ったのか俺は「ホテル。」と答えた。やばい、急にヤリたくなってきた。浅葱はそれを聞いて「…本気ですか。」と言っていたが、別にお前と寝るのは初めてじゃないだろ。「本気だよ。」と言ってやれば彼はそれからなにも答えなくなり、ようやく捕まえたタクシーに乗り込むと俺の知らない場所を運転手に伝えた。  木津の家から走ってどれぐらいだろう、10分とかからなかった気がする場所に下ろされ、それからまた浅葱に支えられながら歩く。もう意識を保つのに必死な状態だったが、それも限界が来てしまい、「暫く寝てください。」と浅葱の声に従うように俺はそのまま意識を手放した。  *  それからようやく目が覚めると、浅葱が横で眠っている俺の頭を撫でていた。そういえば七瀬さんにもされていたな、と思ったが浅葱は俺が目覚めたことに気づいたのか「起きました?」と声をかけてくる。酔いのせいで頭が痛むも、手を浅葱に向けて伸ばすと彼はそれを受け止めてそれから指を絡めた。  「…何時?」  「午前3時です。寝直します?」  「んー…起きたから、いい。」  なんだかやけに寝やすいベッドだな、とは思ったが、なんか香りが違う。俺のベッドでもなければ浅葱のベッドでもない。あれ、と思って目をぱっちりと開けるとそこは本当にホテルの一室だった。そういえば俺、浅葱にホテル行きたいとか言っていたっけ。体を起こしてあたりを見渡すと本当にそこは俗に言うラブホテルのようで、ご丁寧にベッドの枕元には電マとコンドームとティッシュが置かれている。  「…マジでラブホだ…」  「美津さんの言葉、どこまで本気にしていいのか分からなくて。」  そもそもラブホ初体験なんです、とか言っている浅葱は顔が少し赤い。それを見てさっきまで冷めていた熱が戻り、次第にムラムラしてきた。酔っているから仕方がないということにしておこう。浅葱、と彼の名前を呼んでそっと近づいてからキスをすると、浅葱は俺の舌を受け入れてそのまま何度も絡ませた。起きたらホテルにいた、なんて普通に考えればなんて恐ろしいことだろうが、相手が浅葱なら構わないと思っている自分がいる。一度唇を離してからもう一度だけ軽く触れるキスをし、それから俺は彼に抱きついた。  「み…美津さん、まだ酔ってます?」  「酔ってるからムラムラしてる。」  「え!?」  驚く彼の声を聞いて思わず笑い声を漏らし、それから彼は「からかいましたね?」とそのまま俺をベッドに押し倒しながらまたキスをしてくる。浅葱にキスされながら彼の背中に腕を回し、浅葱もそれを受け入れた。それから浅葱は俺の首筋にキスをするも、跡をつけない彼に俺は「…いいよ。」と言うも、彼は「ダメです。」と頭を横に振る。そのことに少し驚くも、「どうしたの?」と聞けば浅葱は微笑んだ。  「こんな跡をつけなくても、僕は美津さんのこと信じてますから。」  その言葉に俺は自分が酔っているからとかそんな言い訳ができなくなるほど顔が赤く染まり、同時に胸が高鳴る。なんだよ、信じてるって。俺が他の人と寝ていると知った上でお前はそんなことを言えるのか。その余裕な態度に少し腹が立ったものの、喜びの感情を隠しながら「ばか。」と言って彼の両頬をつねってやる。浅葱は笑っていたが、その顔がまた可愛いものだから頬にキスをした。  「…美津さん、すみません。」  「え?…なに、急に。」  突然、彼がしんみりとした顔でそう切り出すものだから途端に嫌な予感がして俺はほぼ反射で覚悟をした。どうしたんだろう、もうこんな関係やめたいとか言うんだろうか。いや、そうだとしたらホテルまで来ないよな。ともあれ彼の次の言葉を待っていると浅葱もまた覚悟を決めたのか一度息をついてから俺の体を起こして向かい合わせに座った。  「美津さんが木津先輩のマンションで寝ている間、木津先輩と外にいって話をしていたんです。」  「…何の。」  「木津先輩にこのキスマークは美津さんが付けたんだろと言われて、本当に美津さんのことが好きなのかも聞かれました。」  木津の名前が出てきて俺は「は?」と思わず声が出たが、浅葱は申し訳なさそうに「本当にすみません。」と頭を下げる。いや、お前に謝られても。というか、木津は昔から察しがいいとは思っていたが、まさか俺と浅葱の関係を見抜いていたとは。…いや、普通おかしいと思うだろう。ついこの前まで彼のことを知らなかったのに、今じゃ彼と一緒に行動しているのだから。俺と浅葱の関係が近すぎたのかもしれない。  「お前はなんて答えたの。」  そう言って浅葱を見れば、彼は顔を俯かせたまま「本当のことを言いました。」と答える。  「僕は美津さんのことが好きだから、嘘をつけませんでした。」  たとえ嘘だとしても、嫌いだとは言えないぐらいあなたのことが好きです。  美津さんは嫌ですよね、僕が勝手に友達にゲイだということを教えたようなものですから。  そう語る浅葱を見てみればポタポタと涙を流しているのだろう、浴衣に落ちて染みをつけたそれを見つめ、俺は下唇を噛み締めながら「ばかだろ。」と本日2回目の言葉を浴びせた。浅葱の顔を上げ、予想通り泣いていたその顔を見て俺は抱きしめずにはいられない。  確かに木津相手とはいえ、勝手に俺との関係を打ち明けた彼に対して思うことがない訳ではない。けど、それは俺もかつて七瀬さんと一緒にいたときにも思っていたことだ。  逆に俺が木津に呼び出されて浅葱との関係について聞かれたら同じように真実を言ってしまうだろう。  「…お前は悪くないよ。謝らなくてもいい。」  純粋で優しいお前ならきっと打ち明けた自分を責めているだろう。浅葱はごめんなさい、と何度も言いながら俺の身体にしがみついた。  浅葱が落ち着いた頃、俺はティッシュを何枚か手に取って彼に渡す。浅葱は受け取りながらまたすみませんと謝ってきた。俺が起きたとき、浅葱は少し苦しそうな顔を浮かべていたのを思い出す。きっと俺が眠って起きるまでずっとどう切り出そうかとか思ったんだろうな。それこそ泣くのを我慢していたのかもしれない。  「…いつか木津には打ち明けないといけないとは思っていたんだ。むしろキッカケを作ってくれたから感謝してるよ。木津はどういう反応してた?」  本当はその反応を聞くのが怖いが、浅葱はまだ少し震えている声で「美津は男にもモテるだろうなとは思ってたと言ってました。」と答える。思わずその答えに少し笑った。なんだ、木津は最初から分かっていたということか。まあ、何かと察しがいいやつだったからな。  「今度木津と改めて話してみるよ。あー、肩の重荷が少し減った。」  思わずベッドで寝転びながらそう言い、浅葱の方を見ると彼はまだ少し滲む涙を拭き取る。こうも泣いてくれるほど彼は自分のことを好きなんだと思うと堪らない気持ちにさせられた。今度は決して変な意味は含んでいない。  浅葱、と彼の名前を呼ぶと浅葱は小さく返事をしてから俺の横に寝転んだ。お前が泣いてたら俺が落ち込んでいられないだろう。  「…もう自分を責めるなよ。俺は本当にもう大丈夫だから。」  「……はい。」  「他に木津と話したことは?」  浅葱は少し思い出しながら「美津のこと頼むわ、と言われました。あと、美津さんはいろいろ抱えているからとも。」と答える。「いろいろ?」「その…ご家族のこととか名前のこととかです。」そう言われて思わず「ああ」と思い出した。そういえば唯一、木津に打ち明けてるのは自分の家庭環境のことだ。名前も恐らくそれのことだろう。  俺は浅葱の髪を整えながらまだ少し濡れている頬を指で触れる。もう浅葱に全て打ち明けてもいいだろう。そんな大層なことじゃないが、彼に聞いてもらいたいと俺は思った。  「俺が小学校4年生ぐらいの頃かな、両親が離婚したんだ。」  離婚の理由は正直あまりよく分からないが、仕事一筋だった父親に母親が嫌気をさしたんだと思う。母親は俺を引き取ろうとするも、父親のような安定した稼ぎがないため俺は父親に引き取られた。母親もその方が俺にとって幸せだろうと思ったらしい。  それから3年後、中1に上がったある日、父親に一人の女性を紹介された。父親の仕事は弁護士で、その女性も父が経営している法律事務所で働いている弁護士の一人らしい。直感で分かったのは恐らく彼女は父親と付き合っているだろう。こういうとき子供の勘というのは案外鋭いものだ。  案の定、父親から女性を紹介されて半年後に二人は入籍した。  「向こうも過去に離婚歴があって子供もいたから最初は同じ境遇の者同士で励まし合いをしていたらしいんだけどな。」  それがいつの間にか別の感情に変わっていたらしい。  覚悟していたとはいえ、やはり血の繋がりのない母親と弟が出来て最初は戸惑った。その母親が自分の子供ばかりをしつけ、俺がどれだけ悪いことをしても怒らない。ましてや父親は最初から子育てにはあまり興味がないのか、何かで父親に怒られたり褒められたりしたこともなかった。  それから反抗期がやってきたこともあり、日に日に家にあまり帰らなくなった。  それでも家族と呼ぶべき彼らは一度も俺に目を向けたことがない。  よくある家族ドラマみたいに怒ってくれとか関心を向けてくれとかそういう感情が芽生えることなく、俺もまた彼らに関心を持たなくなった。  高校卒業し、大学に進学してから一人暮らしを始めたが実家に帰ったことは一度もない。恐らく自分がいない方がずっと幸せな家庭に俺なんかが入ってはいけないと思ったのだ。  「…血の繋がっていない弟との仲はそこそこ良いんだけどね。歳も近いし、たまに連絡はとってる。」  浅葱は俺の話をしっかりと聞いてくれて、それから俺の手に自分の手を重ねる。暖かい彼の手。  「実の母親とも連絡はとってるよ。大学生になってからも何度か会っている。けど、向こうも既に新しい家庭があるんだ。だからもうどこにもいけない。」  誰かの温もりが恋しくなったりするのは恐らくこういう過去があるからだろう。七瀬さんには恋人どころか家族以上の感情を抱いたし、ずっと彼と一緒にいようと心に何度も誓っていた。だからこそ、裏切られた時にはこれ以上ないほど泣いて泣いて落ち込んでいたのだ。  「名前は…あんまり洸詩って呼ばれたくないのはただ単に実の母親がずっとそう呼んでたから、ほかの人に呼ばれると昔のことを思い出してしまうんだ。」  「…そうだったんですね。」  もうあんまりしんみりした話をしたくなかったんだけど。でも、浅葱が真面目に聞いてくれているそれだけでも俺は充分嬉しかった。木津のことと同じようにまた肩の荷が下りた気がする。  「俺はもうあまり気にしてないよ。実際、実の両親に対して恨みとかそういう気持ちはないから。本人たちが幸せならそれでいい。」  浅葱は俺にまた抱きつき、「美津さん」と俺の名前を呼ぶ。俺はそんな浅葱に「なに?」と聞き返しながら自分よりもずっとしっかりとした彼の背中に腕を回した。浅葱は優しいからきっとまた少し涙ぐんでいるんだろう。もう大丈夫、と言ってやるかのように俺は何度も彼の背中を優しく撫でた。

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