31 / 34

第30話

 授業が終わり、木津と松来に軽く別れの挨拶を言ってから俺は教室を飛び出る。  今日はテスト前の1学期最後の授業だったこともあって教授から実際に天体の映像を見せてもらった。だが映像の時間が予想以上長く、授業終わってからも教授は映像を流し続けていたため見終わった頃にはギリギリバイトに間に合うかどうかの時間になってしまった。一応店長に電話で伝えたが『はーい。ゆっくりきてねー。』と呑気な答えが返ってきた。こっちは死ぬほど急いでいるというのに。  なんとか電車に乗り込み、少し乱れている息を整わせながら時計を見ると急いだからか充分バイトに間に合う時間になっている。なんだ、急いで店長に連絡までしまった自分がバカみたいじゃないか。小さなため息をついてから少し混んでいる電車内のドア付近で立ち、そういえば浅葱から授業中にメッセージが届いたな、なんてことを思い出しながら画面を開く。彼からのメッセージは簡潔なもので、『バイト終わったら僕の立てた勉強スケジュール見てもらえませんか。』というものだ。  まあ、アイツからすれば初めての期末だろうし、いろいろと不安もあるだろう。俺も去年は不安でいっぱいで教授に聞いてたなぁ。  そんなことを思いながら『いいよ。』と返事を打ち、それから目的地に着くまでぼんやりと窓の外を眺めることにした。  *  「いらっしゃいませ…ってみーちゃんおはよ!」  既にお客さんで賑わっている店内に入るとレジにいた結城にキラキラと眩しい笑顔を向けられる。客の目もあって「おはよう。」とだけ返し、そのまま店の奥へと進んだが結城が「みーちゃんが冷たいー」と他の従業員に不満を漏らしているのが聞こえた。っていうか仕事中だろお前は。  スタッフルームを目指しながらすれ違う従業員たちに軽く挨拶をするも、店長は俺の顔を見るなり「美津くん遅刻してないじゃん!」と何故か残念がられた。何でだよ、間に合ったんだから少しぐらい褒めてくれたっていいじゃないか。  スタッフルームに入ると既に着替えを済ませている浅葱が「美津さんおはようございます。」と微笑みかけてきた。なんていうか、来るまでに結城とか店長とすれ違ったからか彼のこの普通の対応と挨拶がなんだか神々しく感じる。眩しい。  「おはよう。…今日ウチに来る?」  「あ…い、行きます。」  それを言おうとしていたのか浅葱は嬉しそうに笑い、俺は彼の笑顔に少し心拍数が上がった気がしたが適当に誤魔化す。着替えながら浅葱に不安な教科ある?と聞くと浅葱は基礎は問題ないが、量子化学の応用問題が不安だと答えた。確か俺も去年は小テストで引っかけ問題に引っかかったのが悔しくて見返すかのように3日間そこだけ集中的に勉強したな。もちろん不摂生な生活をしていたからテスト当日は木津にミイラがテストを受けているみたいだと言われたけど。  「浅葱、バイトいつまで入ってんの?」  「木曜で終わりです。」  「じゃあ金曜、大学終わったら一緒にカフェで勉強しよう。木津と松来の3人でいつも直前に勉強会開いてるんだ。」  「え、行きたいです!」  目を輝かせながら浅葱はそう答える。っていうか木曜まで入ってるとか俺と一緒じゃないか。中間考査があったときは2週間もお休みを頂いたんだから期末はお休みが短くなっても仕方ないよな。従業員の中にも大学生と高校生がいるし、みんな似たような時期に休むからだろうけど。  着替え終えてから浅葱とともにスタッフルームを後にし、それからタイムカードを押してからいつも通りの業務内容に取り組むことにした。  ピークの忙しい時間帯も過ぎ、いつも通り従業員たちが息をつく時間になる。みんながそれぞれ談笑している中、俺は洗浄機でも落とせない乾いたご飯粒のついた皿だったり鍋だったりを丁寧にゴシゴシと力を入れて洗っていた。そこそこの量があるが、今は忙しくないしホールも従業員たちがやってくれるだろう。  そんな作業を続けていたら俺はふと最近見ないあの人のことを思い出した。この頃は七瀬さんの姿が見ない。というか、連絡すらまともに取っていない気がする。いや、取っていないというか一応彼からは『これから仕事で忙しくなる』という連絡は届いている。  そんな律儀に送ってこなくても、と思ったが現にこうして彼のことを心配している自分がいるのだ。そういや今度新作出すって言っていたし、いつも新しい本を書くときは決まってどこかの田舎の宿に泊まって心を落ち着かせているらしいから今回もそうなんだろう。心を落ち着かせるってなんだよと3年経った今でも思うけど。  ちらりと他の従業員と談笑している浅葱を見るとふと思い出してしまったのはあの夜、彼が俺に言っていた言葉。  『信頼されなかったぐらいで直ぐ嫌いになれるほど僕の4年間の片思いは軽くなかったようです。』  『結局僕は美津さんのことが誰よりも好きなんですよ。』  途端に頬が熱を持ち、俺は思わず浅葱から目を逸らした。やばいやばい、仕事中に何思い出してしまったんだ俺は。ゴシゴシと洗っていた手からそっと力を抜き、手を止める。  七瀬さんや浅葱だけでなく、藤谷や結城は俺のことを好きと言ってくれた。それに久野瀬だって。  彼らからの気持ちはどれも本当に嬉しくて、こんな最低な俺のことを好きだって言って、きちんと中身を見てくれている。本当に感謝しているし、みんなそれぞれ大切な人でもあるから傷つけたくはない。けど傷つけたくないからってその気持ちにきちんと答えを出さないのって結局俺はただ逃げているんじゃないか?何気なく考えたことがとてつもなく重たく感じ、俺は今は仕事中だしテスト前だから考えないようにしようと無理やりかき消すように再び鍋を洗う手を動かし始めた。  *  「美津くんも秀くんもお疲れ様。」  今日は早めの午後11時に仕事から上がり、店長や他の従業員たちにまた挨拶をしてから浅葱とまかないを持ってスタッフルームへと入る。同じく11時上がりの従業員が数人いて、結城は俺の顔を見るなり「みーちゃんお疲れ様!」とまた笑顔を向けながら言ってきた。お前への対応が一番疲れそうだわと思わず言いそうになったけど。  ってあれ、今俺にだけお疲れって言った?浅葱には?  「美津さん、お疲れのところだとは思いますが先にスケジュール見てもらってもいいですか?」  「ああ、うん。いいよ。」  よほど不安なのか自分のロッカー前にある椅子に腰掛けると浅葱はそう言ってきた。浅葱に手渡された紙にはこの1週間とテスト期間の勉強する教科やら時間が書かれていて、普段は彼の勉強している姿なんてあまり見ないからか彼が意外にも自分と同じように数時間に渡って1教科を勉強するタイプだと知って少し驚いた。木津とか松来とかほとんどの人は1時間1教科勉強したら飽きないように教科を変えて取り組むのに。  「結構いいと思う。けど、お前って集中力持つタイプ?」  「はい。理解しなきゃ次に進みたくない人間なんです。」  あ、わかる。  そう言葉を返しながら俺は持っていた紙を彼に返し、それからカバンの中に入っていた一冊の参考書を手渡した。何度も読み直したり問題を解いているからお世辞にも綺麗な状態とは言えないが、この本には彼の不安だと言っていた1年の量子化学の範囲が分かりやすく説明されている。ページを開きながら浅葱に「この本、役に立ちそう?」と聞くと彼は驚いた顔を浮かべ、「はい、まさに今やっているところです。」と答えた。  ちなみに浅葱が俺から本を受け取ってページをパラパラとめくっているとそれを覗き込んでいた結城が「え、なにこれ。」と顔をしかめている。結城は教育学部だったっけ。ならこういった問題はあまり見慣れないだろう。  「美津さんもこの本使います?」  「いや、これ1年の時に使ってた奴だから、今は違う本使ってる。たまに解いてるだけだから、役に立つならあげるよ。」  「え、でも…いいんですか?」  「むしろ汚い状態で申し訳ないぐらいだから。」  浅葱は本を閉じてから「ありがとうございます、大切に使いますね。」と言ってきた。今更1年の参考書を使うことはあまりないし、彼の役に立つならそれが何よりだろう。早くまかないを食べて家に帰ろうと思った俺は行儀悪いとは思いながらもまかないを食べながら携帯を触る。結城と浅葱は他の従業員とテストいつまでなのか、夏休みはどう過ごすのか、といった話題で盛り上がっていた。  “七瀬由紀”  もうずっと下のほうにある七瀬さんとのトーク画面を開くことなく、一覧の画面でただ呆然とその名前を見つめる。忙しいって言うんだから送らないほうがいいよな。でも、あの人って本当に忙しい時期とか携帯の電源切ってるし、そもそも携帯触らないし。送ったところで読まれることはないだろうけど、気づいたら指が先に動いてトーク画面を開いていた。  『まだ忙しい時期ですか。お体に気をつけてくださいね。』  メッセージ送った直後、自分で文章を読み返しながら素っ気無さ過ぎるかなと少し思ったが、送ってしまったものは仕方がない。トークを閉じようとすると意外にも直ぐにそのメッセージは既読された。思わず画面を見つめてしまい、彼からの返事を待つ。少し時間が空いて3分後、彼から届いたメッセージを見てみた。  『美津に会いたい。』  画面の前で固まってしまったが、俺が返事に困っていると彼から続きの文章が送られる。『期末テスト近いんじゃない?美津は集中すると周りが見えなくなるから、美津こそ体に気をつけてね。』まるでさっきの会いたいという言葉が彼の独り言だったように続きの文章は一切それについて触れてこなかったが、俺は携帯を握る手に少し力を入れた。少しでも連絡が取れて良かったと喜んでいる自分がいる。  またテスト終わったら連絡して、と送ってきた七瀬さんに俺は分かりましたと伝え、それから携帯の画面をそっと消した。ちらりと浅葱を見てみると彼はこちらを気にしていないようで、俺が七瀬さんと連絡をとっていたことを知らないようだ。というか、二人きりじゃないから一応はセーフということになるんだろうか。  またご飯を口に運ぼうとしたとき、再び携帯が手の中で震えたため見てみるとどうやら連絡してきたのは木津のようだ。『金曜日何時から勉強すんの?』というメッセージに『俺は午後の授業ないからすぐカフェに向かう。』と送った。送ってすぐついた既読に木津が再び何かメッセージを送ってきたところでふわりと香った嗅ぎ慣れた香水に思わず横を見てみると予想通り、浅葱は画面を覗き込みながら「僕も行くと伝えてます?」と聞いてくる。あまりにも近い距離に思わずビクリと肩を震わせながら、ぅお、と声を上げて驚いた俺に浅葱は慌てて謝ってくれたが本当に心臓が口から飛び出るのかと思った。ウチに来た時もこんなことあったな。  「今から伝えるわ…。」  「本当にすみません…。」  まだ痛いほど打ち付ける心臓を押さえながら木津に『浅葱も行くけどいい?』と送ると木津は意外にも早く『了解。松来の後輩も一人来るみたい。』と返してくる。松来の後輩?と思わず頭を傾げるが、そもそも松来の後輩って俺が把握しているだけでもかなりの人数がいるんだけど誰だ?と疑問には思ったがとりあえず分かったとだけ伝えた。  「ねえねえ、みーちゃん。みーちゃんは夏休みどう過ごすの?」  ふと横の結城にそう話しかけられ、そういやさっきまでこいつらみんな夏休みの話題で盛り上がっていたなと思いながらも「バイトと集中講義と課題ぐらい。」と答える。我ながらなんて面白みのない回答だろうと思ったけど。  「それじゃ遊べる日少ないじゃん…。っていうかそれじゃ夏休み入ってもいつも通りの生活でしょ!」  そう指摘されれば確かに納得せざるを得ない。  俺だってせっかくの夏休みを満喫したいとは思っているが、もう少し頭の中を巡らせて夏休みの予定を考えた結果俺は結城に再び目を向けた。  「友達と天体観測。」  「え、星見るの?」  そりゃ興味ない人からすれば海行って泳いだり花火をしたり夏祭りに行ったりするように派手で楽しいものじゃないかもしれないけど。木津と松来の3人で夏休みを利用して一緒に天体観測しようと言ってたのを思い出した。というか、去年は3人で空気の澄んだ綺麗なキャンプ場でテントを張ってみんなで天体観測をして楽しかったから俺がもう一回したいだけなんだけど。  「美津さん天体観測するんですね。いいなぁ。」  「星を見るとかなかなか出来ないもんね。」  いいよね、と女の子たちがそう言ってくれたから俺はようやく肩を下ろせたけど、何故か結城と浅葱はあまり浮かない顔をしている。…え、天体観測そんなに良くなかった?っていうか浅葱は天体観測自体が課題だろ。  二人にどうしたのと聞こうとした時、バイトリーダーの一人がスタッフルームに入ってきて「そろそろ12時上がりの人が来るから急いで出てね。」と伝えてくれたのでその場にいた全員が慌てて帰り支度をすることにした。  お疲れ様でした、ともう一度店長に挨拶をしてから浅葱と共に店を後にして駅へと向かう。まだ終電には間に合う時間だろう、と二人で肩を並べながら駅まで歩くと浅葱は小さく「美津さん充実してますね。」と呟いた。充実?何のこと?  「夏休み、結構予定キツキツじゃありませんか。」  「そうでもない…ことはない。」  頭の中でスケジュールを改めて並べていくと確かに1週間のほとんどが予定で埋まっている気がする。何よりバイトが結構大きい。去年は9月に入るまではほぼフルでバイト入ってたけど、今年はどうなるんだろう。浅葱とか新人も入ってきたし、少しは楽になるのかもしれないけど。  「…一緒に過ごせる時間が少ないのはちょっと寂しいと思っただけです。」  少し悲しそうな顔を浮かべてそう言う浅葱に俺は彼の頬をギュッとそこそこ強めにつねり、「痛い、痛いです…!」と痛がる彼を見てから指を離す。あ、一瞬だけそういやモデルの顔だって事を忘れてしまった。小さくため息をつきながら「浅葱って本当、バカなんだな。」と言ってやれば彼は「え、次は言葉の暴力ですか…?」と少し舌が回っていない言葉を言ってくる。っていうか言葉の暴力ってなんだよ。  「そりゃ予定はいっぱいだけど、別に休みが一切ない訳じゃないだろ。ってか、お前が俺の家に来たらいいだけの話だし。」  「……う…、そうですね。拗ねてしまってなんだか恥ずかしいですけど。」  「…それと。」  俺は一度手を握り締めてからそれを誤魔化すようにポケットに入れ、密かに覚悟していたことを打ち明けようとするも、浅葱がこちらをジッと見つめてくるものだから途端に言葉が出てこなくなってしまう。渡ろうとしていた交差点が赤信号に変わり、目の前の車道を車が通っていく中、俺は喉を突っかかっている言葉を吐き出そうと一度唇を噛み締めてから浅葱に目を向けた。  「今度はきちんと、二人で夏祭りに行こう。」

ともだちにシェアしよう!