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第3話

一晩中の雨が止み、嘘のような晴天が広がっている。 ‘あちー。’ ‘あー、帰るのもだりーわ。’ 下校時間の4時になっても日差しは強く、外に出れば梅雨特有の蒸し暑さに襲われる。 しかし凪沙は今日一日この時間を心待ちにしていた。 昨日の傘を返すだけ、何度も自分に言い聞かせながら、時雨に会うことが楽しみで仕方がない。 いつもと同じ帰り道が、不思議と色づいて見えて。 間も無くついた日本家屋の玄関前で、チャイムを押そうと人差し指を伸ばした。 緊張で指が震える。時雨は昨日あったばかりの言って見れば赤の他人なわけで。 ああ、やっぱり傘だけ置いて帰ろうかな。でもお礼を言わなくちゃ印象悪いし。 ぐるぐる考えながら、やっとの思いでチャイムを押す。 「凪沙くん。わざわざありがとう。しかし暑いねえ。」 引き戸を開けて出てきた時雨は、涼しげなVネックのTシャツを着ていた。襟元から覗く鎖骨のあたりが少し汗ばんでいて色っぽい。 思わず変な意味で凪沙の胸はどきりとした。 「こちらこそ、昨日は本当にありがとうございました。」 深々と頭を下げ、帰り道に足を向ける。 多分、もう会えないかな。少し、寂しくなった。 「まあまあ、そう急がずに。このあと予定でもあるのかい?」 「…いえ、特に何も…。」 「少し上がって行きなさい。ちょうどさっき美味しいお菓子を頂いてね。」 人懐っこい柔らかな笑みを浮かべ、少し首を傾げながら時雨が言う。 その言葉に凪沙は、何も考えず頷いた。そうすることが至極当然な気がして。 不思議な人だ。優しい言葉みたい。 にこにこと笑いながら、驚くほど自然に心の中に入ってくる。 「どれがいい?」 食卓に腰掛けた凪沙に差し出されたのは、見るからに高そうな洋菓子の詰め合わせ。色とりどりのクッキーに、マドレーヌやフィナンシェ、多種類のスティックケーキなどが入っている。 「これ、いいんですか?」 「お好きなものをお好きなだけどうぞ。」 目をキラキラと輝かせた凪沙を見て、時雨は満足気に切れ長の目を細めた。 「あ、ありがとうございます。」 迷っている間にアイスティーを出され、遠慮なく口に含む。きりりと冷たい感触が、渇いた喉を通り、気持ちいい。 長考の末選んだピンク色のスティックケーキは、甘酸っぱいラズベリー味だった。 「凪沙君は、どうして髪を染めたの?あ、これもどうぞ。」 学校のことについて色々話しながら、スティックケーキを食べ終わったあと、凪沙に時雨が問いかけた。 同時に先ほど密かに食べたいと思っていたマドレーヌが差し出される。 「…あの、えと… 」 「うん。」 どうしてか、と聞かれても大した理由はない。それでも時雨は凪沙の答えをゆっくりと待ってくれていた。 催促することもなく、ただ待ってくれている。それが心地よくて。 「…中学まで、あんまり人と喋れなくて、 その、…高校デビュー、みたいな…。失敗しちゃいましたけど。」 本当のことを、ありのままに。言葉に詰まりながら伝えると、偉いと頭を撫でられた。 「そ、そんなんじゃ… 」 「行動できた勇気は本物でしょう?偉いよ。」 恥ずかしくて否定しようとしても、覆されてしまう。 …やばい、もっと一緒にいたい。この人のことをもっと知りたい。 そんなことを思ってしまって。 ふと目に入った本棚を指して、凪沙は口を開いた。 「あの、し、…時雨さんは、どんなお話を書かれるんですか?」 「…そうだね、たとえは恋愛ものとか、仕事の話とか、人の関わりについて書いたものが多いかな。 ミステリーとかも、書いたことはあるんだけどね。」 時雨は気恥ずかしそうに笑う。 「本って、面白いんですか?」 気になって、きいてみる。凪沙にとって本は、なんだか難しいもの、という印象だ。 「難しい質問だね。例えば、アニメやドラマは視覚的にとてもわかりやすいよね。描かれたシーンはみんな同じ映像で見ることができる。 対して、本は書いてある情報からそのシーンを想像したとしても、誰も寸分も違わない全く同じ光景を思い浮かべることはできない。 そういうところが楽しくて、私は小説を書いているんだ。ファンレターで面白い解釈を聞いたりすると、とても楽しいよ。」 文字列で、難しそうでハードルが高くて。もともと凪沙にとって本はその程度の印象であったが、話を聞いていたら少し面白そうな気がしてきた。 「あの、時雨さんの本、読んでみたいです。」 「えっ…、それはちょっと… 」 時雨がわずかに顔をひきつらせる。 「時雨さんの書いた文字を、俺なりの解釈で感じてみたい。」 「うーん、それはとても嬉しいことを言ってくれるねえ…。」 苦笑いしながら、恥ずかしそうに頭をかいて、それでも結局時雨は凪沙に書いた中で一番薄い本を貸してくれた。 「つまらなかったら、全部読まなくてもいいからね。」 「ありがとうございます。俺、初めてこんなに本が読みたくなりました。」 帰り際、そう言って2人は別れた。 誰もいない家に帰ると、凪沙は借りた本を取り出す。いつもなら課題か何か、与えられたものをこなす時間。でも、今本を読むのは、凪沙がしたいこと。 内容は、なんというか温かい、春のような物語だった。 柔らかな言葉で紡がれたストーリーは誰かが魔法を使えたりするわけでもないのに、とても引き込まれ、大切なことを教えてくれる気がする。 誰かが何かをして、周りもそれに影響されて。なんの変哲も無い物語。時雨には日常がこんな風に見えているのか。 似たような見方をしたら、明日から凪沙も、日常が楽しく思えてきそうである。 気づけば一冊読み終わっていて、3時間がすぎていた。 もっと読みたい。あした、返しに行こう。 それからは夕食を作り、シャワーを浴びて少し課題をしてベッドに入った。

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