「末期ガン…？」 容態が落ち着いて病室で目を開けから、時雨が言った言葉に、凪沙は声をあげた。 「驚かせて申し訳なかったね。私はもう長くないんだよ。」 彼はまだ30前半か、それより若いかもしれない。しかし彼がそんなどうしょうもない嘘をつくわけがなく、どう返していいのかわからなくなる。 凪沙は唇を結び、ただ俯いた。どれくらい先かはわからないが、自分にとってとても大切な彼を、そう遠くない未来に失うことになるのだ。 「そんな顔をしないで。むしろしっかり決まっている分、楽だったりするんだよ。」 時雨はそう言って凪沙を安心させてくれようとする。自分の方が、ずっと辛いだろうに。 ぽつり、生温かい雫が凪沙の手の甲に落ちた。視界がぼやけて、自分が泣いているのだと悟る。 「わっ、凪沙くんっ！そんな、泣かないで…？」 時雨があわてて近くのティッシュを差し出した。 泣き止まなきゃと思えば思うほど、凪沙の涙は大粒になる。 あれ、俺、なんで泣いてるんだろう…。 失うのが怖いから？時雨さんが悲しそうだから？ 泣きながら頭の中で考えた。それはきっとどれも違う。何もできない自分が、とてつもなく悔しくて。それに、苛立って。 あと何かもう一つ、ある気がする。ずっとその形がわからなくてもやもやしている感情。彼といると、いつも胸がざわついて、少し苦しい。 しばらくして、凪沙は泣き止んだ。腫れた目が熱を持ってチリチリと痛む。 「どうしてそんなに泣いていたの？」 ふと、時雨が問いかけてきた。とても難しい問だと思った。自分の中でも、まだ答えの半分は見つかっていないのだから。 「…時雨さんともっと一緒にいたいけれど、俺には何もできないから、…えっと、自分にいらいらして、 …あと、時雨さんのことを何も知らないことが悔しくて。 それに、…まだ多分もう一つ何かある気がするんです…。もやもやして…。」 「…凪沙くん、それ本気で言ってる？」 時雨はなんとも言えない困った表情を浮かべた。 抽象的すぎて困らせてしまっただろうか。恐る恐る時雨の方を向く。 「…抽象的で、ごめんなさっ…！？」 突然柔らかな感触に唇を塞がれた。目の前で何が起こっているのか、一瞬思考が停止する。 彼がそばに来ると香る、あの爽やかな香りが口内に広がって、視界には端正な顔立ちが驚くほど近くにあった。 今までにないくらい心臓がうるさい。喉から飛び出てしまいそうだ。酸素を求めて息を吸おうとしても、一向に彼の香りしか入ってこない。 溺れ死ぬ。彼の肩を叩くと、やっとその唇が離れ、新鮮な空気が入ってきた。 「ぷはっ！はぁっ…、はぁっ… 」 夢中になって空気を吸う。何度か深呼吸をして、やっと呼吸が落ち着いてきて、 今度は先ほど目の前で起こったことを思い出し再び焦りだす。 「あ、あのな、なに、を… 」 「今どんな気持ち？」 凪沙の質問を、時雨は質問で返した。彼を直視できなくて、再び俯いてしまう。 「えっと、心臓が、口から、飛び出そう、です… 」 混乱した頭で、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。時雨は困った顔を綻ばせ、優しく笑った。 「凪沙くん、私が死ぬまで恋仲になってくれないか？」 「えっ？？」 「…嫌、かな？」 茶目っ気たっぷりに、首を傾げて彼は笑う。 「い、嫌じゃない！うれしい、ですけど… 」 口づけをされて、凪沙は自分のもやもやした気持ちが何だったかに気がついた。 恋愛感情。 男性に対してだから、全く候補にさえ上がらなかったその感情は、気づいてしまえばもうそうでしかなかったと思えるくらいにしっくりとくる。 「けど？」 「けど、俺なんかで… 」 「凪沙くんがいい。凪沙くん以外じゃだめなんだ。」 言葉を遮られ、唐突に抱きしめられる。好きな人にファーストキスをされた上に抱きしめられて、凪沙は顔から火が出そうだった。 「…願うなら生きている限り、一緒にいたい。わがままで困らせてしまって、ごめんね。」 凛とした低い声が耳元で囁く。その言葉に、凪沙はただ懸命に横に首を振るだけだった。