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第七話 準備
「アイリスが溶けちゃうまで愛してあげるからね」
昨日の、ルーカスの囁きが耳から離れない。仕事中だって昼間は配膳したり皿を洗ったり注文をとったりとひと息つけない程忙しいが、お八つ時には食机を拭くくらいしかやる事がなくてつい、その言葉を思い出してしまう。
「アイリス!」
「ぅわっ!?」
急に肩を叩かれて名前を呼ばれ、思わず大きな声が出た。慌てて振り返ると呆れ顔の薫が腰に手を当てて立っている。
「何ぼーっとしてんのさ」
「え、あ、悪い。何でしょうか?」
「もう上がりの時間過ぎてるって言ってるの」
時計を見れば確かにもう上がってもいい時間で、いつの間にか航大が入っていた。
「さっきからずっと顔緩みっぱなしだし。何かいー事あったのかい? 私が聞いてあげよう」
「いや、いい」
「何でや?」
「何でも」
薫は頬を膨らませて不満たっぷりの目で俺を見る。だが情事の約束をしただけだなんて言えやしないだろうよ。ましてや年頃の女に。
「おい薫! いつまで喋ってるんだ。いい加減仕事戻れよ」
「航大五月蝿い」
「いいから。早くこっち来い」
突然俺と薫の間に割って入った航大が薫の手を引く。俺には「さっさと帰れ」と目で訴えていた。はいはいと俺は荷物をまとめて店を出る。俺が航大に嫌われているのは、薫が事あるごとに俺に絡みにくるせいだ。あいつは自分の気持ちを告げようともしない癖に、嫉妬だけはいっちょ前な餓鬼だ。とにかく、薫にこれ以上追求されずに済んだ事だけは感謝しよう。俺はそのまま魚や米などを買って家に帰った。
それから二日経った。つまり今日はルーカスが泊まりにくる当日だ。仕事を上がってからどうにか薫に声を掛けられる前に抜け出してきた。どうしても夕食を一緒に食べるのは無理だと言われていたので家にあるもので適当に済ませ、少し早いけど風呂にも入って布団を敷いて、“情事の準備”も終わらせた。
「せっかくだし、あれ着るか……」
箪笥の奥に大事に仕舞った青紫色の着物を取り出した。二年前にルーカスに買ってもらった物だ。本当は着る前日に出しておくべきだが今思い立ったから仕方がない。折り目はあるものの、手入れはしっかりしていたから綺麗なままだ。
「前のあれじゃあ不格好だし、ちゃんと着たほうが良いよな」
ちょっと齧った程度だが、着物の構造や帯の扱い方は学んだ。そして今手元にある物が女物であることも知った。色や柄に関してはルーカスが選んだが、着物の形は俺が決めた。道理で当時の店主が妙な顔をしていたと思ったな。華乱の着物も女物寄りの形だったから特に気にする所ではない。それよりも今はきっちり整える方が良いか、脱ぎやすさを重視するかの方が大事だ。
暫く悩んで、やはり脱ぎやすさを重視する事にした。ちゃんと着るのは今度出掛けるときでも良いし、何より、脱ぐのに手間取ったら折角の雰囲気も台無しになる。柄のついた一枚だけを着て、余る部分をどうにか帯で隠れるように腹周りに寄せて、崩れないように伊達締めを締めてから帯を前で結んだ。背中は全く分からないが、取り敢えず自分で見える部分だけは綺麗に形になっている。
それから十分もしないうちに、戸を叩く音が聞こえた。
「はーい」
俺は返事をして玄関へと向かう。戸を開ければ予想通り、俺の愛しい恋人の来訪だった。
「こんばんは、アイリス。綺麗な格好しているね。前に買ったやつだよね?」
「ああ。ルーカスに買ってもらったやつだ。その……折角だし、良いかな……って」
「うん。似合ってる。とってもステキ」
「……ありがとう」
「中、入ってもいい?」
俺はどうぞ、と右手で促した。ルーカスは慣れた足取りで部屋へと入っていく。俺は緊張し過ぎで自分でもわかるくらい可怪しな歩き方をしている。ばくばくと鳴る心臓の音がルーカスに聞こえてしまっているのではないかと思った。
「ご飯は食べたよね? もうお風呂済ませた?」
「ああ、俺はもう準備できてる。ルーカスは? ちゃんと飯食ったか?」
言いながらルーカスは部屋の隅に鞄を降ろした。きっといつも通り寝間着や明日の服、歯磨き等が入っているのだろう。
「大丈夫。船で食べてきた。お風呂借りてもいい?」
「良いよ。沸かし直すからちょっと待ってろ」
「はぁい」
ルーカスの返事を聞いてから俺は部屋を出て風呂場へと向かった。お湯はもう随分冷めて、ぬるま湯になってしまっている。薪を釜戸に放り込んで火を点ける。暫く様子を見て部屋に戻った。
「そろそろ温まった。あとは自分で調節してくれ」
「分かった。ありがと」
ルーカスがいそいそと鞄から服やタオルを取り出す。
「あのさアイリス、一つだけワガママ言ってもいい?」
「内容による」
えっとね、と言ってルーカスは俺の耳に顔を近づけてきた。ルーカスの吐息が耳に掛かって擽ったい。
「オレが戻って来るまで、オレ以外の事考えないで」
「どうしても駄目か?」
「駄目って言いたい。オレの事だけ考えていて」
お願い、なんていう素振りを見せながらほぼ強制に近い。俺としては、できれば一人の間だけでも違う事を考えて緊張を誤魔化したい。
「……善処する」
「うん?」
「できる限りやってみる」
そう言った途端ルーカスに頭を引き寄せられ、口付けられた。俺の頭を抑えていない方の手の指で俺の手の甲をくるくると撫で、指を絡められる。やがて唇が離れ、ルーカスは悪戯っ子のように俺を見て笑った。
「これなら、できるでしょ?」
「っ……さっさと行け!」
「うん。行ってきます」
ルーカスは上機嫌に部屋を出ていった。
顔が熱い。心臓が煩い。完全にしてやられた。一人になってもルーカスの声と唇の感触と体温が残っている。他の事を考えようとしても何も考えられない。ルーカスの悪戯っ子の表情が頭から離れない。もういっそ優しくされなくてもいい。酷くてもいい。ルーカスの腕の中で乱れたい。彼にぐちゃぐちゃに穢されて、滅茶苦茶に犯されたい。逃げ出してしまいたいくらいの緊張が、情欲へと変わった。
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