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第十話 懐かしい人

 めでたくルーカスと結ばれた二日後、俺は一人で下町を歩いていた。初めて点けられた情事の痕は服に隠れず、道行く人の目を引いているようだが気にならない。  最後に寄った質屋で不要になった物を売りに出した帰り道に声を掛けられた。 「菖蒲……だよね? 久し振り」 「柊さん……」 俺を呼び止めたその人は俺がかつて働いていた遊郭、華乱の楼主だった。記憶よりも皺が増えて髪も白くなっている。 「二年ぶりになるのかな? 元気だった?」 「はい」 「もし時間があるなら少し華乱に寄って行かないかい? 勿論、無理にとは言わないよ」 少し悩んだが俺は柊さんの誘いに乗った。以前の俺ならば冷たくあしらって立ち去っただろう。それくらい柊さんの事も郭も嫌いだったからだ。 「失礼致します。お茶をお持ちしました」 禿の佑真が俺と柊さんの前にお茶が入った湯呑みと菓子を置いた。 「ありがとう」 「ありがとう。背ぇ伸びだな」 「えへへ、菖蒲さまが此処を出てから三寸程伸びました。いつか久弥さんくらい背が高くなりたいです」 久弥さんは元華乱の上級花魁であり、今は運営に携わる仕事をしている人で、華乱で一番背が高い。まあ、ルーカスの方が高いけどな、などと思いながら俺は湯呑みに口を付ける。 「それでは、僕はこれで失礼します」 そう言って佑真は部屋を出ていく。急に二人きりになったのが気まずくて、何となくもう一度お茶を飲んだ。 「菖蒲……否、晶(あきら)って呼んだほうが良いかい?」 「あきら……?」 「君の名前だろう?」 その名前はもう久しく聞いていなかった。最後にそう呼ばれたのは十三年前だった。色々な物を失ったあの十年で自分の本名すらも忘れてしまったのである。或いは余生をひっそりと生きていくのに必要な物以外全て置いて此処を出ていくときに、一緒に捨ててしまったのかもしれない。だが柊さんに呼ばれて漸く思い出した。 「今はアイリスと名乗っています。俺の大切な人がそう呼んでくれたんです」 しゃんと背筋を伸ばして自己紹介すると、柊さんは興味深そうに聞いてくる。 「西洋の人かい? それともそちらに精通している人かな」 「イングランド出身の人です。貿易商人をやっていて、今も丁度仕事で日本に居ます」 「凄い人じゃないか。もっと詳しく聞きたいな」  俺はルーカスとの出会いから最近の事までを事細かに話した。柊さんは相槌を打ちながら目を細めて俺の話を聞いている。こんなに柊さんに話をしたのは初めてだ。そして、こんなに優しく、愛おしいものを見るような目で俺を見る柊さんを見たのも初めてだった。 「俺は後一週間もしないうちに日本を離れます。そしてルーカスの船に乗せてもらうんです」 「そうか……寂しくなるね。だけどアイリスが幸せならそれが一番良いよ……なんて、僕が言えた事じゃないか」 「…………」 柊さんの言葉に返事をしなかった。否定するつもりは無いし、だからといって肯定もできなかった。代わりに質問を投げ掛けた。 「柊さんにとって、俺ってどんな奴でしたか?」 「どんな、というのは君の性格の事かい?」 「いえ……花魁としてとか、柊さんの所有物としてです。俺は少しも柊さんに懐かなかったし、仕事も不真面目で態度も悪かったし、金だって言われるまで渡さなかったり、受け取らなかったりしたし……」 苛立ちに任せて暴言を吐いたり、俺に差し出した手や物をはたき落とした事だって一度や二度ではない。きっと、華乱で一番の不良品だった。 「俺、柊さんが傷付けばいいって思っていました。もっと言えば、俺と同じ目に遭えば良いのにってずっと呪っていました。それくらい嫌いだった」 「だった、って言うのは過去形なのかな?」 「分かりません。多分今でも嫌いです」 「そう……」 嫌いだ、と言ったところで何故かチクリと胸が痛む。柊さんに買い取られたあの日から今日の今この瞬間さえ、まだ俺は何を恨めば良いのかなんて分からない。逃げられなくて、自力ではどうしようもない無力さに苛立って、何の覚悟も努力もせずに不満を全て柊さんにぶつけた。俺が一番嫌いなのはきっと何も頑張ろうとしなかった自分自身だ。柊さんの顔を見る事ができなくて下を向く。多分昔と同じ悲しそうな顔をしているだろう。 「話が逸れたね。質問に答えようか」 先程までと変わらない調子で柊さんがそう言ったところで、障子戸の向こうから子供の声が聞こえた。 「ご歓談中失礼します。お茶のおかわりをお持ちしました」 「ありがとう。入って良いよ」 柊さんに言われて入ってきたのは、まだ十を過ぎていないような小さな子だった。見た事が無い子だったから俺が出ていってから入った禿だろう。長い髪を緩く一つに括っている。先程の言葉遣いも、お茶を替える仕草も何処か大人びた印象を受けた。 「空馬(くうま)、折角だしアイリスに挨拶しなさい。アイリス、この子は去年うちに来た禿の子だよ。空馬、アイリスは二年前に年季が明けて此処を出た元花魁なんだ」 柊さんは俺と禿の子に順番に紹介する。空馬、と呼ばれた子供は手を止めてから俺に向かって一礼した。 「こんにちはアイリス様。僕は空馬と申します。昨年の秋に華乱に参りました」 「初めまして。俺はアイリスと言います。二年前まで此処でネコ側の花魁をやっていました」 そう言って同じように一礼する。空馬は少し近付いてきてまじまじと俺を見て言う。 「ねえ菖蒲、菖蒲は今幸せ?」 「あ……ああ。幸せ、だ」 「良かった。僕も今は幸せ」 にこ、と笑った空馬に一瞬、懐かしい真っ赤な着物が似合う花魁の影が重なった。 「それでは、僕はこれで失礼致します」 空馬は俺から離れて障子戸に手をかける。 「待……って」 「十年後、僕を買いに来ても良いですよ」 それだけ言って空馬は部屋を出て行った。

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