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第十一話 「元気で」

 障子戸が閉められ、俺は中途半端に伸ばされたままの手を降ろした。 「空馬と知り合いだったのかい?」 「さあ……空馬は何故此処に来たんですか?」 先程から柊さんの質問に答えていないのに、柊さんは気を悪くした様子はない。 「あの子は母親に直接連れられて来たんだ。『自分を売るなら華乱にしてくれ』と言ったと母親から聞いたよ。何処でこの見世を知ったのかは教えて貰えないけど」 「そうですか……」  もしかしたら……と思った。俺がまだ禿だった頃にふらっと華乱にやってきて、たった数年で誰にも何も言わずに華乱を出て行き、その何日か後に遺体で見つかった花魁が居た。俺があまり他の花魁との交流を好まなかったからそう多くは話していない。だからこそ会話の内容は良く覚えているものだ。多分、彼と最後に会話をしたのは客を除けば俺だっただろう。空馬の言葉や仕草が、彼の生まれ変わりなのではないかと思わせる。 「大丈夫かい? さっきから上の空だけど」 「ええ。すみません、ちょっと考え事をしていました」 「それは構わないよ。不都合でなければ何を考えていたのか教えてくれないかな?」  今日の柊さんの周りの空気はずっと明るくて温かい。いや、最初からこうだったのかもしれない。道理で皆が慕うわけだ。 「ただ空馬には赤い着物が似合うのかなって思っていただけです」 「うん?」 「いや、何となく思っただけです」 「じゃあ十年後に伝えておこうか。勿論本人の好きな色が1番だけど」 ふふ、と柊さんが笑った。笑うと目元と口元の皺が深くなり、更に柊さんが纏う雰囲気が柔らかくなる。 「さっきまでで俺の事は大抵話し終わったんで、今度は柊さんの話を聞きたいです」 「僕の? うーん……相変わらずだからなあ……特に変わった事が無いんだ」 「多分俺、柊さんの事全然知らないと思います。っていうか、知ろうともしていなかったから。ちょっと聞いてみたくて。どうして楼主なんかやってるんですか?」  少しの間何か考えていた柊さんはやがてゆっくりと話始めた。最初に柊さんはもともと男遊郭で身売りしていた事、そこで昼夜問わず身体を開かされていた事、その郭の楼主から犯されたり暴力さえ日常茶飯事だった事を教えてくれた。  自分は遊郭そのものを無くす事はできないし子供を売らなければ生きられないような家族を助ける事もできない。だからせめて「最低限の生活が保証されて花魁を大切にする遊郭」が存在していてほしかった。郭を建て、数人を買い取るだけの金はあったから。柊さんはそう言った。 「……やっぱり俺は楼主としての貴方は嫌いです」  柊さんの話を何度か頭の中で反芻して考えてから告げる。柊さんのしている事は所詮独善的なものだと思ったから。自分勝手、独りよがり、エゴイズム、利己的、偽善者……それらの言葉が頭をよぎる。 「そうだろうね。僕だって正しい事をしているとは思ってないよ。"子供たちの為"なんて言いながら自分の為にやっている事だ」 「でも、柊さん自身はもう嫌いじゃないです」 「何か違うのかい?」 「話し方とか、平等に優しくしてくれるところとか、一人ひとりをちゃんと見ているところとか、一人の人としての柊さんは嫌いじゃないです。と言っても、今日気づいた事なんですけど。でも貴方のその考えは独善的で嫌いです」  きっぱりと言い切ったらぐるぐるごちゃごちゃしていた頭の中が少しすっきりした。今度は胸がズキリと痛む事はなかった。もっと何か聞こうと思ったが、外とこの部屋を隔てる障子戸が橙に染まっているのに気づいた。 「そろそろ日が沈むでしょう。俺もう帰りますね」 「ああ……もうそんな時間か。裏口まで見送るよ」  俺が手荷物を持って立ち上がると、柊さんも同じように腰を上げる。綺麗に着飾った花魁達と軽く会釈をしてすれ違いながら裏口へ向かった。 「今日は来てくれてありがとう。もうアイリスとは会えないかと思っていたよ」 「本当はもう会わないつもりでいましたから。でも此処に来て良かったです。柊さんの事を憎んだまま日本を出ていくところでした」  年季が明けて華乱を出ていくとき、手続きの時だって禄に口を聞かず、金と最低限必要な物だけを持ってさっさと出てきた。きっと柊さんにとっては寂しい別れだったかもしれないと思いながら歩く。入って来たときは部屋までの渡り廊下が長く感じていたのに、帰りはあっという間に裏口に着いてしまった。 「それでは、またいつか」  そう言って戸に手を掛けようとすると、柊さんに後ろから抱きしめられた。背中がじんわり温かい。決して力は強くなく、子供でも容易に振り解けるだろう。それでも俺は動けなかった。 「晶……アイリス、どうか元気で……できることなら此処も僕の事も忘れるくらい幸せになって……」  柊さんの声は小さく、酷く弱々しい。俺を抱きしめるその手は、振り払い、はたき落としたあの日とは比べ物にならないくらい皺だらけで柔らかかった。きっともう何回も会えないだろう。もしかしたらこれが最後かもしれない。 「いつかまた来ます。此処で酷い目に合った事はどれだけ癒えて無かった事にしたくても一生忘れられないし、貴方の事は忘れません。だから柊さんも俺の事を忘れないでください」 「勿論。忘れられるわけがない」 「もう行きます。柊さんもお元気で」 「うん。ありがとう」  柊さんが離れてから俺は裏口の戸を開けた。もう夕日が沈み始めている。早く帰らないと見世が開いてしまう。淫らな声を聞かされるのも菖蒲を知る客や見物人と鉢合うのも御免だ。一礼をしてから戸を閉め、一度だけ振り返って早足で帰路につく。家に着く頃にはもう日は完全に沈み、無数の星が光っていた。

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