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第十七話 「フィッシュ」
折敷(お盆状の膳)の上には白米と茶飯の二種類の米に豆腐の味噌汁、むき身切り干し、そしておそらく魚だと思われる大きな天麩羅が乗っていた。
「これ、何?」
何の魚? という意味で聞くと、薫は良い発音で「fish」と答えた。
「それは分かるが……」
「商船に乗っていたときに食べた料理に『フィッシュ・アンド・チップス』ってのがあったんだよ。でもほら、こっちの芋は食べられないからフィッシュ・アンド・チップスのチップス無し」
「それでフィッシュか」
アイリスは笑って「美味しそうだね」と言った。
「ほら、アイリスもルーカスさんも早く食べてよ。折角の出来たてが冷めるじゃないか」
薫はルーカスを急かして箸を持たせる。ルーカスは促されるままフィッシュに箸をつけた。俺も「いただきます」と両手を合わせて味噌汁を飲む。そういえば健さんと千代さんはどうしているのかと思って店内を見回すと、隅の方でじっとこちらの様子を伺っていた。
「ん、美味しい。イングランドとは衣が違うけどこっちも合うね!」
ルーカスが言うと、薫は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「そうだろうそうだろう! 何せこれは私が作ったんだから」
「そうなのか? てっきり健さんかと」
「他はそうだけど、これは私が作ったんよ。勿論これを出すって決めたのも私さ」
「そうか、ありがとうな。薫」
「ふふん。苦しうない」
偉そうに言ったのはきっと照れ隠しだろう。耳がほんのり紅くなっている。ルーカスは一口ずつ味わいながら次々と料理を口に運んだ。
「美味しかったです。ゴチソウサマでした」
「お、お粗末様でした」
俺達が食べ終わってからようやく夫婦がこちらに寄ってくる。ルーカスはにこやかに料理一つ一つの感想を述べた。健さんは褒められるたびにぺこぺことルーカスに頭を下げる。
「そんなん意識せんでも私らとおんなじ人間やろ。見た目も言葉も違ったところで何も変わらんよ」
「そうだな。同じ人間だよな」
薫の呆れた言葉に同意した。薫は俺よりも十歳下だけど、海の外に関しては遥かに色々なものを知っている。外国への知識や興味だけでなく、年頃の娘らしく日本人女性としての教養も身に着けてほしいところだが、そちらは全くもって身についてないのは玉に瑕だ。未だに大坂辺りの話し方も抜けてない。帰国した時に着いた港が大坂の方で、暫くはそちらにいたおかげで若干大坂辺りの言葉遣いや訛りが混じった独特な話し方をしている。実際にその辺りに住んでいる人と話した事はないから大坂の言葉かどうかも怪しいが。
「アイリスの英語の先生ってこのスピリティッド・ガールでしょ?」
「せやせや、私がアイリスの先生よ。それとスピリティッド・ガールじゃなくて薫って呼びなさいな」
「カオル、ありがとう。再会したとき、アイリスが英語を話せるようになっていて感動したんだ。手紙まで貰えたよ」
「ほーお、手紙ねえ? 私は一言も聞いてないけど?」
薫ににやにやした顔で見られ、俺は何で喋るんだと恨みを込めて興奮気味のルーカスを睨む。
「でも、少しシットしてる。オレが教えるものだと思っていたからね」
「それはアイリスを怒りなさいな。私は頼まれたから教えたんや。それに、簡単な挨拶と口説き文句ばっかり覚えているんだから日常会話はさっぱり。しっかり教え込んであげると良いぞ」
「そうなの? じゃあここからはオレが引き継ぐよ」
ルーカスは俺を引き寄せ、腰を抱いてそう言った。俺は居た堪れなくなって手で顔を覆う。「あらあら」という千代さんの声が聞こえ、多分全員が俺を見ているだろう事を察した。
薫とルーカスの会話は暫く盛り上がり、慣れた夫婦も話に加わる。内容は主に英国文化と互いの仕事と俺の話だ。半分くらいはルーカスに会えなかったときの俺の恋事情の暴露話で、恥ずかしくてすぐにでも立ち去りたかったが、「最後かもしれないから」とルーカスに言われればその場に居るしかなかった。
夕方になり、少し早めの夕食もついでにいただいてから食事処を出る。
「アイリス、行きたいところがあるんだけど、いい?」
「ああ。どこに行くんだ?」
「遊郭。アイリスが居たところ。浮気はしないから、行ってもいい?」
ルーカスはパンッと音を立てて両手を合わせた。浮気云々なら大丈夫だろうが、美人で異国人という人目を引く存在のルーカスは襲われそうで心配だ。何せここから真っ直ぐ華乱まで行くとなると治安の悪い道を行く事になる。その旨を伝えたら、ルーカスはシュッと拳を振った。
「それは問題無い。海賊や陸の賊とか盗人と戦えるように鍛えてる。嘘だと思うなら殴ってみなよ」
手で煽られ、寸止めするつもりで軽くルーカスに向かって拳を突き出した。
「遅い。もっと」
「はっ」
あっさりと掌で受け止められた。余裕の表情のルーカスを見て、先程よりも握り拳に力を込める。流石に顔は殴れないから肩の辺りを狙って踏み込み、殴りかかった。
「ッ!?」
殴られたのは俺の腹だった。否、殴られたと言うより、拳で強く押されている。ルーカスを殴ろうとした筈の俺の手は空を切っただけだった。避けられたのかと認識した瞬間、ルーカスに向かって伸ばしたままの腕を捕まれ、体をひっくり返される。
「アイリス、殴り合いのケンカした事ないでしょ?」
「ガキの頃に同い年の禿だった奴と引っ叩きあったくらいだ」
「空振りした後にボケっとしたらすぐ殺られるよ。明日から特訓だね」
「…………」
ルーカスは立ったまま、地べたに背を付けた俺を見下ろして笑った。俺はルーカスの手を借りて立ち上がる。
「さっきの話に戻る。ヒイラギさんだっけ? ろーしゅ? って人に会いたい。できれば一人で行きたいんだ」
「俺が居たら駄目なのか?」
「うーん……多分、今までで一番カッコ悪いとこ見せるからダメ」
今までにルーカスが格好良くなくなったところは、初めて出会った翌日に女装してきた時くらいだ。あれは客観的に見て似合っているとは言い難いものの、俺に好かれようと試行錯誤した結果だと思うと可愛かった。ところで、柊さんに会って一体何をするつもりだろうか? ルーカスに聞いたが、濁して答えてはくれない。
少し考えてから、途中までの道のりは一緒に行って夜明けまでには俺の家に帰ってくる事を条件に許す事にした。
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