18 / 34

第十八話 冷静であれ

「ここを真っ直ぐ行って、正面のあの大きな建物が華乱。まだ開店前だが、直に開くはずだ」 「分かった。ありがとう」  案内をしてくれたアイリスにお礼を言い、別れて一人で目的地に向かった。  華乱に着いて扉に手を掛けたが、扉は鍵が掛かっているようでピクリとも動かない。確か、アイリスの家と同じで横に引く扉だと言っていた。周りに人気はないし、扉の向こうに影も見えない。格子状の檻のような場所から二部屋、中の部屋が見えたがやはり誰も居ない。仕方なく一旦中に入れてもらうのは諦める。開店したら誰かに会えるだろうと待っていると、拙い蘭語で声を掛けられた。 『この場所に何か用ですか?』  声が聞こえた方を見ると、黒髪を後ろで纏めて青い石の付いた簪を挿した、綺麗な顔立ちの中年の男性だった。その後ろに刀を腰に下げた侍が立っている。 『私はイングランド商人、ルーカス・ウォーリックです。用事があってヒイラギさんという方に会いにきました。華乱という遊郭はこの建物で間違いはないですか?』  なるべく丁寧にゆっくり話すと、綺麗な男性は途切れ途切れの蘭語で返した。 『はい。合っています。ごめんなさい、英国は話せない。中、入るのは、ここから』 「ありがとうございます」  日本語で返すと、蘭語で話していた男性と刀を持った侍が驚いた顔をした。 「日本語の方が話しやすいでしょう?」 「助かりました。蘭語はまだ勉強中の身だったのです。嗚呼、申し遅れました。私は光城久弥と申します。華乱で楼主の補佐と花魁の教育など、主に裏方の仕事をしている者です。こちらは間嶋宗次郎。私の護衛をしています」  Mr.コウジョウに紹介されたMr.マシマは無言でぺこりと頭を下げた。アイリスと同じ、背筋が伸びた綺麗な一礼だ。 「Mr.コウジョウ、ウォーリックの取り引き相手に同じ名前の方がいます。親戚ですか?」 「ええ。私の父です。ウォーリックさんのお話は父からよく聞いていましたが、まさか私がお会いできるとは思いませんでした。どうぞ」  裏口、と言うのだろう。先程の扉よりも小さな扉から建物の中に案内された。 「客人用の部屋へとご案内致します。どうぞこちらへ。宗次郎は先に行って柊さんを呼んできなさい。空馬、お茶を二つ用意しなさい」  Mr.コウジョウはたまたま通りかかったのだろう子供にお茶を頼み、オレを応接用の部屋へと案内してくれた。  着席してから暫くして、Mr.マシマが入室してきた。そしてMr.コウジョウに何かを告げて早々に去る。 「申し訳ありません。楼主の柊は今不在だそうです。もしよろしければ、私が代わりに要件をお聞きしましょう」 「いえ、自分で話したいので大丈夫です。数刻で戻って来るなら待っていても良いですか?」 「ええ、勿論です。ただの買い物のようなので夜になる前に戻るでしょう。それまでの間の暇潰しの話し相手に、私を選んでいただけませんか?」 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 「こちらこそありがとう御座います。正面のお席、失礼致しますね」  Mr.コウジョウはオレの正面に座った。タイミング良くさっきの子供がお茶を持ってオレとMr.コウジョウの前に置く。Mr.コウジョウは部屋の前に控えていたMr.マシマを招き入れた。クウマ、と呼ばれていた子供にお茶の礼を言ってからMr.コウジョウに向き直る。 「ウォーリックさんは菖蒲……いえ、アイリスの恋人の方ですよね?」  先に口を開いたのは彼の方だった。 「はい。どうしてそれを?」 「三日程前に柊がアイリスにばったり会い、此処に来て話をしたそうです。今はアイリスと呼ばれていて、イングランド商人の恋人がいると聞きました。貴方が恋人だと聞いたときは驚きましたよ」 「アイリスが此処でオレの事を話していたんですか」 「ええ。アイリスは、今はとても幸せだと言っていたそうです。幼少期ぶりに笑顔が見られたと柊も喜んでいました」 「つまり、幼少期から此処を出るまでにアイリスは笑わなかった、と?」  自分でも分かるくらいに声のトーンが低くなった。今はただの雑談だ、大丈夫だ、まだ冷静だと自分に言い聞かせ、深呼吸をする。今感情を爆発させたら楼主に会う事はできないだろう。それよりも、ヒイラギさんに会う前に少しでも多く此処でのアイリスの事を知っておきたい。 「私は菖蒲が禿として入ってきた十二の時から見てきましたが、その時から一度も見ておりません。彼の両親が健在だった頃は他の子と変わらず無邪気な笑顔を見せていたと聞いてはいますが……」 「Mr.コウジョウ、貴方は長く此処に居るんですか?」 「そうですね。裏方としては古参ではありませんが、十四で華乱に売られてからもう二十五年になります」 「売られた?」  遊郭が"そういう"場所であるとは知っていたが、裏方で働く者も売買されていたのだろうか?  Mr.コウジョウはお茶を飲んでから短く、静かに息を吐いてオレを見た。 「私も元花魁。源氏名を紫陽花と名乗り、かつては男役の上級花魁を務めました」 「アジ、サイ……?」 「そして菖蒲の水揚げ――見世に出て客を取る前に行う初めてのまぐわいの相手であり、指南役でもあります」  ドクン、ドクンッと心臓が早鐘を打った。紫陽花――  アイリスを初めて抱いた男。  アイリスを壊した男。  アイリスに絶望を与えた男。  アイリスに優しさを教えなかった男。  アイリスから笑顔を奪った男。  「紫陽花」の名は、何度か聞いていた花魁時代の話に度々出てきた。アイリスが酷い目に合い続けていたのはこの男だけのせいではない事くらい、頭では理解ってる。でも真っ先にアイリスを陵辱した男だ。 「楼主の次に、お前に会いたかった……ッ」 「ウォーリックさん?」 「どうして……どうしてアイリスを傷付けた? 優しく抱かれる事を知っていれば、アイリスは『酷くされるのが気持ちイイ』なんて言わなかっただろう? アイリスが思い出したくもないお前との行為を夢に見て魘される事もなかった。人に優しくされて泣くくらい傷付けて、何が上級だ!」 「私は、私の果たすべき務めを果たしました。菖蒲は責務を放棄して逃れようとした。為すべき事を教え、彼が此処で生きていける生き方を教えただけです」  表情一つ変えず、目の前の男はオレを見据えて淡々と言う。オレは怒りに任せて湯呑みを掴み、中身を紫陽花に向かってぶち撒けた。

ともだちにシェアしよう!