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第十九話 VS

第十九話  バシャッ 「なっ……久弥さんに何という事を――」 「下がりなさい、宗次郎」 「いいえ、下がりません! 久弥さんにこのような愚行を働くなど許せません」  Mr.マシマは紫陽花の前に出て刀の柄に手を掛けた。そのままオレに斬りかかってくれば良いものを、紫陽花は再び止めに入る。 「宗次郎、止しなさい」 「何故、です? 彼が光城家の取引相手だからですか?」 「そうではない。ウォーリックさんが怒るのは当然でしょう。大切な人の心身を傷付けた相手が目の前に居たら私でも殴り飛ばします。お前も分かるだろう?」  そう言って紫陽花はMr.マシマを退出させ、濡れて顔に貼り付いた前髪を掻き上げた。「気持ちは分かる」と言いながら少しの懺悔の気持ちも後悔の色も見えない。今すぐ胸ぐらを掴んで海に引き摺り落としたい気持ちは、収まるどころか、より一層強くなった。 「私は菖蒲に義務を全うさせ、そしてこの檻の中での生き方を教えました。人としては正しくなくとも、菖蒲の指南役として、上級花魁としての責務を果たしました」 「それが……アイリスの幸福を奪ってでもするべき事だったんですか?」 「此処で生きる覚悟も決めず、逃げ出す勇気もなく、ただ自分の不幸を嘆くだけの者はあっという間に踏みつぶされて死ぬ。力尽くに引き摺って、這ってでも進ませた方が希望はあるでしょう?」 「その希望も幸福もお前が決めるな!」  バシッ――  気付いたらオレは紫陽花に詰め寄り、顔を殴っていた。指の付け根の辺りがジンジンする。代わりに頭は少し冷静になって、「今後Mr.コウジョウとの取引が無くなるだろう事を、どうやって父さんに説明して皆に謝ろうか」などと考えていた。  紫陽花は赤くなった頬に触れもしないで、ただ真っ直ぐこちらを見ていた。いつの間にか戻ってきて濡れた畳を拭いていたMr.マシマが、殺気のこもった目でオレを睨んでいる。手で紫陽花に宥められていなければ今度こそ抜刀していただろう。 「黙って見ていないでやり返したら?」 「いいえ。私にその権利は無いでしょう。気の済むまで殴ってください」 「I'm so pissed!(ムカつくなあ!)」  振り払うように手を離して、思わずそう吐き捨てた。これはあまりにも品が無い。伝わる人に聞かれれば眉を顰められるだろう。だがここはオレと、英国は分からないという紫陽花だけだ。このくらいは許されたい。だが一方的な暴力は紳士じゃない。不完全燃焼を舌打ちで無理矢理消化してから、元の座っていた位置に戻った。 「…………」 「…………」  暫く沈黙が続く。それを破ったのは、部屋の外からの子供の控えめな声だった。 「失礼致します。楼主の柊が戻りました。こちらへご案内しても宜しいでしょうか?」 「……お願いします」  このまま楼主と会っても正直まともに話ができる気がしないが、もう紫陽花と話すのにも嫌気がさしていた。  少し間を空けてから、白髪の目立つ小柄な男が入ってくる。アイリスに聞いて描いた想像よりも、遥かに小さくか弱そうな老人だった。紫陽花はスッと立ち上がり、その場を楼主に譲る。そして楼主が腰掛けたのを見て扉に近いところに座った。 「お待たせして申し訳ありません。華乱の楼主、柊と申します」  楼主が一礼したのに合わせてオレも頭を下げた。 「お初にお目にかかります。ルーカス・ウォーリックと申します」 「アイリスから貴方のお話は聞いております。人の良い、優しい方だと教えていただきました」  楼主の……ヒイラギさんの柔らかい微笑みは苛立っていたオレを咎めているように見えた。彼にそのつもりがなかったとしても、オレは良くない事をした気分だった。 「三日前に偶然アイリスに会って、貴方の話を聞いたとき、是非お会いしてみたいと思っていましたが、こんなに早く叶うとは考えていませんでした。来てくださってありがとうございます」 「いえ……オレも貴方にお会いしたいと思っていました」  耳を優しく撫でるような、心地良い声だった。それだけでオレの苛立ちは半減する。何も言わずにただ彼の些細な動きを見ていた。 「本日は、どのようなご用向きで?」  Mr.マシマが運んできたお茶をオレとヒイラギさんの前に置き、静かに部屋の隅に控える。 「貴方が親だとアイリスが言っていたから、挨拶にきました」 「そう」  ヒイラギさんは嬉しそうな、辛そうな、複雑なよく分からない顔をした。口に出さなくても人の感情は大体分かると自負していたが、まだまだのようだ。様子を見つつ、そのまま話を続ける。 「明日、オレ達の船はニホンを出ます。アイリスも連れて行く予定です」 「そうですか。明日……寂しくなりますね」 「それは本心ですか?」 「え?」  今度は意表を突かれたと言うような、驚いた顔をしている。後ろの紫陽花も同じだったが、すぐにまた元の澄まし顔に戻っていた。 「勿論本心だ。アイリスが再び此処を訪れる事も、偶然道で会う事もなくなるのは寂しく思います。でも、それ以上にあの子が自分の意志で愛する人と生きたいと思った事を嬉しく思います」  目の前には無い何かを慈しむ目と言葉が、嘘だとは思えなかった。きっと心からそう思っているのだろう。たまに取引相手のお客さんとの雑談で見てきた、「親が子を想う顔」そのものだ。 「貴方はもっと守銭奴で冷たくて非道い人だと思っていました」 「アイリスの目にはきっとそう映っていたでしょう。いえ、きっと他の子達も……」  ちらりと紫陽花を見たら、「そんな事は無い」と言うように首を横に振っていた。Mr.マシマもだ。 「あの二人にとっては違うようですね」 「有り難いことに、彼らは……特に久弥は僕を慕ってくれているからね」 「同じ考えを持っているからですか?」  なるべく声が低くならないように聞いた。 「そうだと良いですね。……それよりも、もっと他に僕に言いたい事があるんでしょう?」  そう言ったヒイラギさんの目は、人の心の奥底を覗けるような目だった。取り繕った嘘も貼り付けた笑みも、善人のふりも詐欺も通用しない、人の本心を見抜く目。この目を持つ人は、長年商人を続けてきた父さんの他に数人しかオレは知らない。そういった人の見た目は他の人と何ら変わりは無い。けれど相手に「人の本音や本性を見抜く目があるかどうか」は話せばすぐに分かる。そして本音を隠しているときは特に分かりやすい。 「遠慮は要りません。全て受け入れる覚悟はできています」  静かに、ヒイラギさんは言った。

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